パンを焼かない一日(前編)
その朝、紬はいつもより早く目を覚ました。
目が覚めたというより、眠りが浅かったのだと思う。
布団の中で何度も寝返りを打って、時計を確認して、まだ起きるには早いと目を閉じて。それを何度か繰り返した。今日は、蓮と出かける。デートだ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返されていた。
「……デート」
声に出してみると、急に恥ずかしくなった。
紬は布団の中で顔を覆った。昨日までなら、蓮と出かけるというだけで、もう少し落ち着いていられたかもしれない。けれど、蓮ははっきりと言ったのだ。
「デートです」
あれから、何度もその言葉を思い出している。そして、先日蓮が送ってくれた際に、眠る直前、自分が口にした言葉まで思い出してしまった。
今はデートのことを考えたかったのに。どこに行くのか。何を着ていくのか。そんなことを考えたかったのに。母親のことばかりが頭に浮かんでしまった。そのことを、あろうことか蓮の前で口にしてしまった。
「……私、何言ってるんだろう」
紬は、枕に顔を埋めた。本人の前で言ってしまったのは恥ずかしいが、蓮も誘ったタイミングで美和がククノチ訪れたため、約束の再確認になったようであれから日時など決め今日を迎えることができた。
紬は今日は母親のことは、もちろん頭から消して楽しむ、そう決めていた。
服を選ぶのには、思った以上に時間がかかった。
いつもなら、動きやすさを優先する。店に立つことを考えれば、汚れても気にならない服の方がいい。
けれど今日は違う。クローゼットの前で、紬は何着も服を出しては戻した。
「……何を着ればいいの」
誰に聞くわけでもなく呟く。結局、あまり気合いを入れすぎているように見えない服を選んだ。
鏡の前に立つ。いつもと大きく変わったわけではない。それなのに、落ち着かなかった。
待ち合わせ場所に向かう途中も、何度も自分の服装を確認した。変ではないだろうか。子どもっぽくないだろうか。張り切りすぎていないだろうか。
そんなことを考えているうちに、待ち合わせ場所が見えてきた。そして、紬は足を止めた。蓮がいた。ーーいつもの蓮ではなかった。
いや、正確には、蓮自身はいつもの蓮なのだろう。
ただ、学校で見る時とも、ククノチで見る時とも違う服装をしていた。カジュアルなシャツに、すっきりとしたパンツ。
長い髪はいつもと同じようにまとめられているけれど、教師として学校にいる時よりもずっと柔らかい雰囲気だった。
長身の身体に、よく似合っている。そして、改めて見ると。顔立ちが、かなり整っている。堀の深い顔。すっと通った鼻筋。落ち着いた目元。
普段はよくジャケットを身につけているせいか、「先生」という印象が先に立っていた。だから、今まであまり考えたことがなかった。
けれど。紬は、思った。……あれ?蓮さんって。
もしかして。
「……めちゃくちゃ、かっこいい?」
「紬さん?」
「えっ」
声に出ていた。紬は、慌てて口元を押さえた。
「い、いえっ」
「何か言いましたか?」
「何も言ってません」
「そうですか?」
「はい」
蓮は少し不思議そうに紬を見た。その視線を受けて、紬はさらに落ち着かなくなった。
「……今日は」
蓮が言った。
「はい」
「先生じゃなくていいですよ」
「え?」
「今日はデートなので」
さらりと言われて、紬の心臓が跳ねた。
「で、でも……」
「いつも通りだと、少し変でしょう」
「そうですか?」
「僕は、そう思います」
蓮は、少し考えるように首を傾けた。
「蓮でいいです」
「……」
「名前で呼んでください」
紬は、蓮の顔を見た。
「……蓮さん?」
「はい」
返事が、いつもより少し柔らかかった。ただ名前を呼んだだけなのに、胸の奥がくすぐったい。
「なんか……変な感じがします」
「僕もです」
「蓮さんも?」
「はい。いつも紬さんに先生と呼ばれているので」
蓮は少し笑った。
「今日は先生じゃねぇワシでおりたくて」
不意に、岡山弁が混じった。紬は目を瞬いた。
「……今、岡山弁でした?」
「そうですか?」
「そうです」
「地元に帰ったので、少し戻ったのかもしれません」
「少しどころじゃない時がありますよ」
「そうですか?」
「はい。たまに何を言っているのか分からない時があります」
「それは困りましたね」
「困るんですか?」
「僕は困りません」
「私は困ります」
「では、分からない時は聞いてください」
「聞いたら教えてくれるんですか?」
「もちろんです」
「じゃあ、今日は岡山弁の勉強も兼ねますね」
紬が言うと、蓮は少し考えた。
「……デートに勉強を持ち込むんですか?」
「先生が言ったんじゃないですか」
「今日は先生じゃありません」
蓮はそう言って、少しだけ笑った。紬は、また胸が跳ねるのを感じた。いつもより、よく笑う。
いやもしかすると、いつもより自分がよく見ているだけなのかもしれない。
「それで、今日はどこへ行きますか?」
蓮が尋ねた。
「え?」
「行き先です」
「あ、蓮さんが決めているんじゃないんですか?」
「いくつか考えてきました」
蓮は、指を折りながら話し始めた。
「海へ行く。少し離れた町で昼食を食べる。景色のいい場所へ行く。あとは、小さな美術館もあります」
「いくつも考えてきたんですね」
「はい」
「……ちゃんとデートしようとしてくれていますね」
思わず口にすると、蓮がこちらを見た。
「何かおかしいですか?」
「いえ」
紬は慌てて首を振った。
「ただ、蓮さんがこういうことを考えてくれていたんだなって」
「嫌でしたか?」
「まさか」
紬は即座に答えた。そして、自分の反応が早すぎたことに気づいて、少し恥ずかしくなる。
「……海がいいです」
紬は言った。
「海?」
「はい」
少し考えてから、もう一度頷く。
「海に行きたいです」
「分かりました」
蓮は迷わず答えた。
「では、海に行きましょう」
その言い方が、なんだか嬉しかった。自分が選んだものを、蓮がそのまま受け入れてくれたことが。
蓮の車まで歩く。蓮は先に車のところまで行くと、助手席側のドアを開けた。
「どうぞ」
「……え?」
紬は、開けられたドアを見た。
「どうぞ」
「いや、あの」
「乗らないんですか?」
「乗りますけど……」
紬は少し戸惑いながら、助手席に乗り込んだ。蓮は何でもないことのようにドアを閉めた。運転席に回り、乗り込む。シートベルトを締め、エンジンをかける。
それだけの動作なのに、紬はなぜか目で追ってしまった。そして、車が走り出してからも。蓮の横顔を、何度も見てしまった。
ハンドルを握る手。信号待ちで、少しだけ指を動かす仕草。前方を見つめる目。バックミラーを確認する横顔。
長い髪が、肩のあたりで揺れる。紬は、窓の外を見た。そして、また蓮を見た。……先生って。実は、めちゃくちゃかっこいいのでは?
今まで、どうして気づかなかったのだろう。いや、モデルのようだと思ったことはあったけれども。
ただ、「先生」という言葉の方が先にあっただけで。
「紬さん」
「はいっ」
「先ほどから、何度かこちらを見ていますが」
「えっ」
見られていた。
「何でもありません」
「そうですか?」
「はい」
「運転している僕の顔に、何かついていますか?」
「ついてません」
「では、やはり何かあるのでは?」
「ありません!」
蓮は、前を向いたまま笑った。
「そうですか」
「……蓮さん」
「はい」
「ちょっと意地悪じゃないですか?」
「そうですか?」
「そうです」
「紬さんが何か隠しているようだったので」
「隠してません」
「では、何を考えていたんですか?」
紬は黙った。
言えるわけがない。
運転している横顔がかっこいいと思っていました、など。
「……海のことです」
「海?」
「はい」
「どんな海か考えていたんですか?」
「そうです」
「なるほど」
蓮は、あっさり納得した。納得したのか、納得したふりをしているのかは分からない。
「蓮さんは、運転すると静かですね」
「普段から静かでは?」
「普段より静かです」
「運転に集中しているので」
「なるほど」
「紬さんは運転中、何をするんですか?」
「私は……」
紬は少し考えた。
「歌います」
「歌うんですか?」
「歌います」
「では、今日は歌ってください」
「えっ」
「聞きたいので」
蓮は、前を向いたまま言った。紬は固まった。
「……今のは冗談ですか?」
「どうでしょう」
「蓮さん」
「はい」
「意外と意地悪ですね」
「先ほども言われました」
「だって、急に歌ってくださいって」
「歌ってくれると思ったので」
「歌いません」
「残念です」
蓮が、少しだけ笑った。紬は、その横顔を見た。また、胸が跳ねた。運転している姿も。笑っている顔も。少し意地悪なところも。
普段の先生とは違う蓮も。全部新鮮で、だけど蓮らしくて。嫌いではないし、むしろーー。
紬は、窓の外へ視線を戻した。車は、海へ向かって走っていた。隣には、蓮がいる。そのことが、今さらながら不思議だった。そして、少しだけ嬉しかった。
「紬さん」
「はい」
「海が見えてきましたよ」
蓮の声に、紬は顔を上げた。遠くに、青い海が見えた。紬は窓の外を見つめた。隣で、蓮がハンドルを切る。その横顔を、また見てしまう。
そして、紬は心の中で思った。今日はきっと。いつもより少しだけ、蓮さんのことを知る日になる。
けれど同時に。
自分が知らなかった蓮のことを知るたびに、胸の奥が妙に騒がしくなることを。この時の紬は、まだうまく説明できなかった。




