↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
62/84

再会のミルクパン(後編)

 紬をアパートまで送り届けたあと、蓮は一人で来た道を戻っていた。夜の常盤木町は静かだった。

 昼間なら誰かの声が聞こえる通りも、今は遠くで車が走る音がするだけだ。蓮は、さっきまで隣を歩いていた紬のことを考えていた。

 母親と再会した紬。何かを言いたそうで、何も言えなかった紬。蓮は、彼女の隣にいた。けれど、何もできなかった。

 何か言葉をかけようとは思った。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。大丈夫だと簡単に言うことはできない。きっと大丈夫だと、根拠もなく言うこともできない。

 蓮自身には、紬と同じ経験がなかった。母親との間に、紬のような記憶も、傷もない。だから、自分の経験を重ねて、


「分かります」


と言うことはできなかった。


 分からないものを、分かったように扱うことだけはしたくなかった。だから、見守るしかなかった。そのことが、少しだけもどかしかった。

 教師としてなら、誰かに何かを伝えることができる。英語のことなら、知らないことを調べて、分かるように説明することもできる。

 けれど、人の心の中にあるものは、そう簡単にはいかない。紬が何を感じているのか。何を怖がっているのか。何を望んでいるのか。それは、紬にしか分からない。

 だから、蓮にできることは、紬が自分で向き合おうとした時、その隣にいることだけなのかもしれなかった。母親と向き合う紬を、そばで見ていたい。何かを解決してあげたいわけではない。自分が答えを出してあげたいわけでもない。

 ただ、紬が一人で立ち向かわなければならない時間に、隣にいる人間でありたいと思った。

 蓮は、ふと足を止めた。そして、小さく息を吐く。


「……それにしても」


 誰もいない道で、ひとりごちた。


「勇気を出して、ようやくデートに誘ったのに」


 その直後に、紬の母親が現れた。あまりにも見事なタイミングだった。


「……もう少し、後でもよかったんですけどね」


 蓮は苦笑した。とはいえ、母親に来るなと言うわけにもいかない。紬にとって大切な問題なのだから。蓮はまた歩き出した。

 日曜日のことを考える。どこへ行こうか。紬は何が好きだろう。自分は、ちゃんとデートらしい場所を選べるだろうか。と言うか、まだこの約束生きてるのだろうか?

 そんなことを考えながら、蓮は家へ帰った。




 ーー翌朝。


 紬はほとんど眠れていなかった。眠りに落ちたと思えば、すぐに目が覚める。母親の声が浮かぶ。しばらくこの町にいるという言葉が浮かぶ。

 昨日の蓮との会話も思い出す。デート。その言葉を思い出すと、胸が少しだけ熱くなる。けれど、すぐに母親の顔が浮かんだ。何度も何度も、考えが行ったり来たりした。朝になっても、頭の中は少しも整理されていなかった。


 それでも紬は、ククノチへ向かった。

 店を開けないという選択肢は、最初からなかった。いつものように、仕込みをして、生地をこね、焼く。

 パンが焼き上がる頃には、外はすっかり朝の光に包まれていた。オーブンを開ける。焼きたての香りが、店いっぱいに広がった。

 紬はトレイを取り出した。その瞬間、視界が揺れた。


「……あれ」


 足元がふらつく。紬は、近くの棚に手をついた。


「紬ちゃん?」


 千鶴が振り返った。


「大丈夫」


「大丈夫な顔じゃないよ」


「本当に大丈夫だから」


 紬は、トレイを置いた。その動作にも、いつものような力がない。千鶴は、紬の顔をじっと見た。


「今日は休んだらどう?」


「でも、パンは焼けてるから」


「焼けてるねぇ」


「お客さんも来るし」


「それは、そうだけど…」


「だから、店は開けられる」


 紬は、いつも通りに話そうとした。いつも通りにしていれば、いつも通りに戻れる気がした。店を開ける。お客さんと話す。パンを売る。そうしていれば、母親のことを考えなくて済む。千鶴には、紬が働いて考える時間を少なくしようとしているのが分かった。


「紬ちゃん。」


「大丈夫だってば。」


 少し強い声になった。千鶴は黙った。紬も、言ってから少しだけ顔を伏せた。


「……ごめん」


「謝らないでいいよ。」


「でも」


「ただ、今日は休んだ方が良いと思っているだけ。お客さんの前でそんなだと心配かけるよ。」


「休んだら、考えたくないことまで考えちゃうから。」


 紬の声が、小さくなった。千鶴は困ってしまい、何も言えなくなった。その時、店の扉が開いた。


「おはようございます」


 蓮だった。


「おはようございます」


 紬も、いつものように返そうとした。けれど、声に力がなかった。蓮は、すぐに紬の顔を見た。


「……紬さん?」


「はい?」


「いえ」


 蓮は、何かを言いかけてやめた。千鶴が、そんな蓮を見た。


「蓮くん」


「はい」


「悪いんだけど」


 千鶴は、紬を見た。


「紬ちゃんを連れて帰ってくれる?」


「おばあちゃん」


 紬が振り返る。


「私は大丈夫だから」


「大丈夫には見えないな。」


 千鶴の声は、強くなかった。だからこそ、紬は言い返せなかった。


「一晩、寝てない顔してるよ。」


「……」


「今日はもう、帰りなさい。」


「でも……」


「お客さんは私がどうにかする」


「おばあちゃん」


「これでも、ククノチの前の店主よ。」


 千鶴は、チャーミングにウィンクしてみせた。人の心の動きに寄り添う接客は、忘れてなさそうである。


「紬ちゃんがしっかり休めることが大事。」


 紬は黙り込んだ。蓮は、そんな紬を見ていた。

昨日からずっと、紬は大丈夫と言っている。けれど、今の紬は明らかに大丈夫ではなかった。


「……帰りましょう」


 蓮が言った。


「先生まで」


「はい」


「でも、私は本当に」


「分かっています」


 蓮は静かに遮った。紬が顔を上げる。


「分かってる?」


「紬さんが、店を閉めたくないことは」


 蓮は言った。


「でも、今日は帰った方がいいと思います」


 紬は、何も言えなかった。


「蓮くん」


 千鶴が言う。


「悪いけど、アパートまで連れて帰って、ちゃんと寝るまで見張っといてくれるかしら。」


「見張る……。」


「そう、見張るのよ。」


「私、子どもじゃないんだけど。」


 紬が言うと、千鶴は少しだけ眉を上げた。


「今の紬ちゃんは、子どもより聞き分けが悪い。」


「……」


 紬は反論できなかった。蓮が、思わず小さく笑う。


「では、見張ります」


「蓮さんまで……」


 紬は、困ったように蓮を見た。それから、諦めたように息を吐く。


「……分かりました」


 店を出る。朝の空気は、思ったより冷たかった。

紬は、歩きながら何度も後ろを振り返った。


「本当に、閉めてよかったのかな」


「千鶴さんが大丈夫だと言っていました」


「でも」


「今日は、紬さんが休む日です」


 蓮はそれだけ言った。紬は、しばらく黙って歩いた。アパートに着く。紬は鍵を開けた。


「どうぞ」


「はい」


 蓮は部屋に入った。紬は、部屋の中を見回した。いつもと変わらない部屋。なのに、今日は落ち着かなかった。


「寝てください」


 蓮が言った。


「はい」


 紬はベッドに腰を下ろした。けれど、横にはならない。


「紬さん」


「寝ます」


「はい」


「本当に寝ます」


「分かりました」


 蓮は、少し離れたところに座った。紬はベッドに横になった。天井を見る。目を閉じる。けれど、すぐに開く。


「眠れません。先生今日学校は?」


「今日は遅番だったから大丈夫ですよ。」


「母が」


 蓮は、何も言わなかった。


「昨日、母が来ました」


「はい」


「しばらく、この町にいるそうです」


「はい」


 紬は、天井を見たまま続けた。


「母は、昔からパンが嫌いだったわけじゃないんです」


 蓮は、静かに聞いていた。


「昔は、普通に食べてました。おばあちゃんのパンも」


「そうなんですね」


「私も、母がパンを食べてるのを覚えています」


 紬は少し笑った。


「でも、いつからか……嫌がるようになって」


 蓮は、口を挟まなかった。


「私がパン屋を続けたいって言った時も、反対されました」


「……はい」


「やめた方がいいって」


 紬は、しばらく黙った。


「私はパン屋じゃない方がいいって」


 蓮は、紬を見る。


「……理由は?」


「分かりません」


 紬は、正直に答えた。


「今でも、よく分からないんです」


 母が何を怖がっていたのか。なぜ、自分がパン屋になることをあれほど嫌がったのか。紬自身にも、まだすべては分からなかった。


「ただ……」


 紬は、ゆっくり息を吐いた。


「嫌われていたわけではないと思うんです」


 蓮は黙っている。


「母は、私のことを嫌いだったわけじゃない」


「はい」


「でも、傷ついたことは覚えてる」


 その言葉に、紬自身が少し驚いたようだった。


「……そうなんです」


 蓮は、すぐに答えなかった。何かを言うべきなのかもしれない。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。


「蓮さんは、何も言わないんですね」


 紬が言った。


「すみません」


「謝らないでください」


 紬は、少しだけ笑った。


「何を言えばいいのか分からないんですよね」


「はい」


 蓮は正直に答えた。


「僕には、紬さんと同じ経験がないので」


「……うん」


「だから、分かりますとは言えません」


 紬は、しばらく蓮を見た。それから、ゆっくり目を閉じた。


「その方がいいです」


「そうですか?」


「はい」


 紬の声が、少しずつ眠たげになる。


「分からないのに分かるって言われるより……」


「はい」


「分からないって言ってくれる方が……そう言うところが……」


 紬はそこで言葉を止めた。呼吸が、少しずつゆっくりになる。蓮は、紬が眠りに落ちていくのを見守った。しばらくして、紬が小さく呟いた。


「……今は、デートのこと考えたかったのに」


 蓮は、固まった。


「……え?」


 紬は目を閉じたままだった。


「どこに行くのかな、とか……」


 蓮の顔が熱くなる。


「……」


「何着ていこうかな、とか……」


 紬は、それだけ言うと、今度こそ眠りに落ちた。蓮は、しばらく何も言えなかった。やがて、眠った紬を見ながら、小さく息を吐く。


「……それは」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


「僕も、考えていました」


 もちろん、紬には届かない。蓮は一人で、耳まで赤くなった。


 そして、眠っている紬を見ながら、もう一度だけ呟いた。


「……約束、まだ有効じゃったみたいじゃな。」


 紬は答えなかった。ただ、穏やかな寝息を立てていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。