再会のミルクパン(後編)
紬をアパートまで送り届けたあと、蓮は一人で来た道を戻っていた。夜の常盤木町は静かだった。
昼間なら誰かの声が聞こえる通りも、今は遠くで車が走る音がするだけだ。蓮は、さっきまで隣を歩いていた紬のことを考えていた。
母親と再会した紬。何かを言いたそうで、何も言えなかった紬。蓮は、彼女の隣にいた。けれど、何もできなかった。
何か言葉をかけようとは思った。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。大丈夫だと簡単に言うことはできない。きっと大丈夫だと、根拠もなく言うこともできない。
蓮自身には、紬と同じ経験がなかった。母親との間に、紬のような記憶も、傷もない。だから、自分の経験を重ねて、
「分かります」
と言うことはできなかった。
分からないものを、分かったように扱うことだけはしたくなかった。だから、見守るしかなかった。そのことが、少しだけもどかしかった。
教師としてなら、誰かに何かを伝えることができる。英語のことなら、知らないことを調べて、分かるように説明することもできる。
けれど、人の心の中にあるものは、そう簡単にはいかない。紬が何を感じているのか。何を怖がっているのか。何を望んでいるのか。それは、紬にしか分からない。
だから、蓮にできることは、紬が自分で向き合おうとした時、その隣にいることだけなのかもしれなかった。母親と向き合う紬を、そばで見ていたい。何かを解決してあげたいわけではない。自分が答えを出してあげたいわけでもない。
ただ、紬が一人で立ち向かわなければならない時間に、隣にいる人間でありたいと思った。
蓮は、ふと足を止めた。そして、小さく息を吐く。
「……それにしても」
誰もいない道で、ひとりごちた。
「勇気を出して、ようやくデートに誘ったのに」
その直後に、紬の母親が現れた。あまりにも見事なタイミングだった。
「……もう少し、後でもよかったんですけどね」
蓮は苦笑した。とはいえ、母親に来るなと言うわけにもいかない。紬にとって大切な問題なのだから。蓮はまた歩き出した。
日曜日のことを考える。どこへ行こうか。紬は何が好きだろう。自分は、ちゃんとデートらしい場所を選べるだろうか。と言うか、まだこの約束生きてるのだろうか?
そんなことを考えながら、蓮は家へ帰った。
ーー翌朝。
紬はほとんど眠れていなかった。眠りに落ちたと思えば、すぐに目が覚める。母親の声が浮かぶ。しばらくこの町にいるという言葉が浮かぶ。
昨日の蓮との会話も思い出す。デート。その言葉を思い出すと、胸が少しだけ熱くなる。けれど、すぐに母親の顔が浮かんだ。何度も何度も、考えが行ったり来たりした。朝になっても、頭の中は少しも整理されていなかった。
それでも紬は、ククノチへ向かった。
店を開けないという選択肢は、最初からなかった。いつものように、仕込みをして、生地をこね、焼く。
パンが焼き上がる頃には、外はすっかり朝の光に包まれていた。オーブンを開ける。焼きたての香りが、店いっぱいに広がった。
紬はトレイを取り出した。その瞬間、視界が揺れた。
「……あれ」
足元がふらつく。紬は、近くの棚に手をついた。
「紬ちゃん?」
千鶴が振り返った。
「大丈夫」
「大丈夫な顔じゃないよ」
「本当に大丈夫だから」
紬は、トレイを置いた。その動作にも、いつものような力がない。千鶴は、紬の顔をじっと見た。
「今日は休んだらどう?」
「でも、パンは焼けてるから」
「焼けてるねぇ」
「お客さんも来るし」
「それは、そうだけど…」
「だから、店は開けられる」
紬は、いつも通りに話そうとした。いつも通りにしていれば、いつも通りに戻れる気がした。店を開ける。お客さんと話す。パンを売る。そうしていれば、母親のことを考えなくて済む。千鶴には、紬が働いて考える時間を少なくしようとしているのが分かった。
「紬ちゃん。」
「大丈夫だってば。」
少し強い声になった。千鶴は黙った。紬も、言ってから少しだけ顔を伏せた。
「……ごめん」
「謝らないでいいよ。」
「でも」
「ただ、今日は休んだ方が良いと思っているだけ。お客さんの前でそんなだと心配かけるよ。」
「休んだら、考えたくないことまで考えちゃうから。」
紬の声が、小さくなった。千鶴は困ってしまい、何も言えなくなった。その時、店の扉が開いた。
「おはようございます」
蓮だった。
「おはようございます」
紬も、いつものように返そうとした。けれど、声に力がなかった。蓮は、すぐに紬の顔を見た。
「……紬さん?」
「はい?」
「いえ」
蓮は、何かを言いかけてやめた。千鶴が、そんな蓮を見た。
「蓮くん」
「はい」
「悪いんだけど」
千鶴は、紬を見た。
「紬ちゃんを連れて帰ってくれる?」
「おばあちゃん」
紬が振り返る。
「私は大丈夫だから」
「大丈夫には見えないな。」
千鶴の声は、強くなかった。だからこそ、紬は言い返せなかった。
「一晩、寝てない顔してるよ。」
「……」
「今日はもう、帰りなさい。」
「でも……」
「お客さんは私がどうにかする」
「おばあちゃん」
「これでも、ククノチの前の店主よ。」
千鶴は、チャーミングにウィンクしてみせた。人の心の動きに寄り添う接客は、忘れてなさそうである。
「紬ちゃんがしっかり休めることが大事。」
紬は黙り込んだ。蓮は、そんな紬を見ていた。
昨日からずっと、紬は大丈夫と言っている。けれど、今の紬は明らかに大丈夫ではなかった。
「……帰りましょう」
蓮が言った。
「先生まで」
「はい」
「でも、私は本当に」
「分かっています」
蓮は静かに遮った。紬が顔を上げる。
「分かってる?」
「紬さんが、店を閉めたくないことは」
蓮は言った。
「でも、今日は帰った方がいいと思います」
紬は、何も言えなかった。
「蓮くん」
千鶴が言う。
「悪いけど、アパートまで連れて帰って、ちゃんと寝るまで見張っといてくれるかしら。」
「見張る……。」
「そう、見張るのよ。」
「私、子どもじゃないんだけど。」
紬が言うと、千鶴は少しだけ眉を上げた。
「今の紬ちゃんは、子どもより聞き分けが悪い。」
「……」
紬は反論できなかった。蓮が、思わず小さく笑う。
「では、見張ります」
「蓮さんまで……」
紬は、困ったように蓮を見た。それから、諦めたように息を吐く。
「……分かりました」
店を出る。朝の空気は、思ったより冷たかった。
紬は、歩きながら何度も後ろを振り返った。
「本当に、閉めてよかったのかな」
「千鶴さんが大丈夫だと言っていました」
「でも」
「今日は、紬さんが休む日です」
蓮はそれだけ言った。紬は、しばらく黙って歩いた。アパートに着く。紬は鍵を開けた。
「どうぞ」
「はい」
蓮は部屋に入った。紬は、部屋の中を見回した。いつもと変わらない部屋。なのに、今日は落ち着かなかった。
「寝てください」
蓮が言った。
「はい」
紬はベッドに腰を下ろした。けれど、横にはならない。
「紬さん」
「寝ます」
「はい」
「本当に寝ます」
「分かりました」
蓮は、少し離れたところに座った。紬はベッドに横になった。天井を見る。目を閉じる。けれど、すぐに開く。
「眠れません。先生今日学校は?」
「今日は遅番だったから大丈夫ですよ。」
「母が」
蓮は、何も言わなかった。
「昨日、母が来ました」
「はい」
「しばらく、この町にいるそうです」
「はい」
紬は、天井を見たまま続けた。
「母は、昔からパンが嫌いだったわけじゃないんです」
蓮は、静かに聞いていた。
「昔は、普通に食べてました。おばあちゃんのパンも」
「そうなんですね」
「私も、母がパンを食べてるのを覚えています」
紬は少し笑った。
「でも、いつからか……嫌がるようになって」
蓮は、口を挟まなかった。
「私がパン屋を続けたいって言った時も、反対されました」
「……はい」
「やめた方がいいって」
紬は、しばらく黙った。
「私はパン屋じゃない方がいいって」
蓮は、紬を見る。
「……理由は?」
「分かりません」
紬は、正直に答えた。
「今でも、よく分からないんです」
母が何を怖がっていたのか。なぜ、自分がパン屋になることをあれほど嫌がったのか。紬自身にも、まだすべては分からなかった。
「ただ……」
紬は、ゆっくり息を吐いた。
「嫌われていたわけではないと思うんです」
蓮は黙っている。
「母は、私のことを嫌いだったわけじゃない」
「はい」
「でも、傷ついたことは覚えてる」
その言葉に、紬自身が少し驚いたようだった。
「……そうなんです」
蓮は、すぐに答えなかった。何かを言うべきなのかもしれない。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
「蓮さんは、何も言わないんですね」
紬が言った。
「すみません」
「謝らないでください」
紬は、少しだけ笑った。
「何を言えばいいのか分からないんですよね」
「はい」
蓮は正直に答えた。
「僕には、紬さんと同じ経験がないので」
「……うん」
「だから、分かりますとは言えません」
紬は、しばらく蓮を見た。それから、ゆっくり目を閉じた。
「その方がいいです」
「そうですか?」
「はい」
紬の声が、少しずつ眠たげになる。
「分からないのに分かるって言われるより……」
「はい」
「分からないって言ってくれる方が……そう言うところが……」
紬はそこで言葉を止めた。呼吸が、少しずつゆっくりになる。蓮は、紬が眠りに落ちていくのを見守った。しばらくして、紬が小さく呟いた。
「……今は、デートのこと考えたかったのに」
蓮は、固まった。
「……え?」
紬は目を閉じたままだった。
「どこに行くのかな、とか……」
蓮の顔が熱くなる。
「……」
「何着ていこうかな、とか……」
紬は、それだけ言うと、今度こそ眠りに落ちた。蓮は、しばらく何も言えなかった。やがて、眠った紬を見ながら、小さく息を吐く。
「……それは」
誰にも聞こえない声で呟いた。
「僕も、考えていました」
もちろん、紬には届かない。蓮は一人で、耳まで赤くなった。
そして、眠っている紬を見ながら、もう一度だけ呟いた。
「……約束、まだ有効じゃったみたいじゃな。」
紬は答えなかった。ただ、穏やかな寝息を立てていた。




