再会のミルクパン(前編)
「……紬」
母の声が、店の中に落ちた。紬は、返事をしなかった。できなかった。目の前に立っている女性を見ている。ーー母親。色々な感情がせめぎ合う。今の紬にはなんと言葉にして良いかわからない。
「久しぶり」
美和が言った。
「……うん」
ようやく、紬の口から声が出た。それだけだった。蓮は、紬の隣に立ったまま、静かに二人を見ていた。美和が蓮に視線を向ける。
「こちらの方は?」
「……常盤木高校の先生で、常連さんなの。」
紬は少し遅れて答えた。
「藤代蓮先生」
「初めまして。藤代と申します」
蓮が頭を下げる。美和も、わずかに頭を下げた。
「小鳥遊紬の母です。」
母が言ったその言葉が、店の中に妙に大きく響いた気がした。紬の母であると名乗ってくれた。
美和は何も言わず紬を見た。昔と同じようで、少し違う顔。紬の知っている母より、少しだけ歳を重ねている。
当たり前のことなのに、それが妙に不思議だった。
「……仕事で近くまで来たから、パン、買っていこうと思って。」
美和が言った。
「パン?」
紬は、間の抜けた声を出した。
「うん」
「……ああ」
自分の店なのに、何を言えばいいのか分からなかった。いつもなら、客の顔を見て、その日のおすすめを考える。甘いものが好きそうなら、あんぱんやクリームパン。食事にするなら、惣菜パンやハード系。
その人の表情を見て、自然に言葉が出てくる。けれど、母親を前にすると、何も浮かばなかった。
美和が何を好きだったのか。紬は、すぐに思い出せなかった。
いや。思い出せないのではなく、思い出そうとすると、別の記憶が混ざってくる。
幼い頃の自分。母の声。パンの匂い。そして、その匂いを嫌がるように閉じられた扉。
「今日は……」
紬は、言いかけて止まった。何を勧めればいいのか分からない。その時、奥から千鶴が声をかけた。
「今はミルクパンが焼きたてよ。美和、久しぶり。」
紬が振り返る。千鶴は、いつも通りの顔をしていた。
「……ミルクパン。」
美和が呟いた。
「それにする。」
紬は、少しだけ驚いた。
「ミルクパンでいいの?」
「うん」
「……分かった」
紬はパンを袋に入れた。母親のためにパンを選ぶ。それだけのことなのに、手元が少し震えた。
「ありがとう」
「……うん」
美和は袋を受け取った。すぐに帰るのかと思った。けれど、母はその場から動かなかった。
「それと」
美和が言った。紬は顔を上げた。
「私、しばらくこっちにいることになったから」
「……こっち?」
「常盤木町」
紬は、しばらく言葉の意味を理解できなかった。
「しばらくって……?」
「しばらく」
「どれくらい?」
「まだ、はっきりとは決めてない」
美和は、淡々と答えた。
「仕事のこともあるし、少しこっちで過ごそうと思って」
「……そう」
紬は、それ以上何も言えなかった。母が、この町にいる。今日だけではない。明日も。もしかしたら、明後日も。この町のどこかに、母がいる。
その事実が、急に現実味を持って迫ってきた。
「じゃあ、また来るかもしれない」
美和が言った。紬は、すぐに返事ができなかった。ーー来る。母がこの店に、また。
「……うん」
やっと、それだけ言った。美和は、少しだけ紬を見た。何かを言おうとして、やめたように見えた。
紬もまた、何かを聞きたかった。どうして今なのか。なぜ、この町なのか。なぜ、あの頃。なぜ、自分を。
けれど、口から出てきたのは、
「気をつけて帰ってね」
という言葉だった。美和は、少しだけ目を見開いた。それから、
「うん」
と答えた。店の扉が開く。外の風が、店の中に入り込んだ。
「じゃあ」
「……うん」
美和は、紬を見た。紬も母を見た。それだけだった。美和は店を出ていった。扉が閉まる。鈴の音が、短く響いた。
その音が消えたあとも、紬は入り口を見ていた。動けなかった。
「紬ちゃん。」
千鶴が、静かに呼んだ。
「……うん」
「座る?」
「……大丈夫」
反射的に答えた。けれど、足は動かなかった。母が来た。パンを買った。しばらく、この町にいると言った。それだけのことなのに。
胸の中には、いくつもの感情が一度に押し寄せていた。嬉しい。そう思った気がした。でも、怖い。そう思った気もする。パンを買いに来てほしかったのかもしれない。もう来てほしくなかったのかもしれない。会いたかったのかもしれない。
でも、会ったら、何を言えばいいのか分からなかった。母が帰ってしまったことに、ほっとした。それなのに、もう少し話したかったような気もした。
紬自身にも、何が本当の気持ちなのか分からなかった。ただ、体だけが店の中に置き去りになったように、そこから動けなかった。
蓮は、そんな紬を見ていた。何か言おうとは思った。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
「……紬ちゃん。」
千鶴が、もう一度呼んだ。
「うん」
紬は答えた。けれど、声に力がなかった。千鶴は蓮を見る。蓮も、千鶴の視線に気づいた。
「蓮くん」
「はい」
「悪いけど……」
千鶴は一度、紬を見た。
「紬を家まで送ってくれる?」
「おばあちゃん」
紬が振り返る。
「大丈夫だから」
「……そう?」
千鶴は、それ以上言わなかった。その状態は大丈夫ではないと言うことも。ただ、紬の顔を見た。
「今日は一人で帰らん方が良い気がするよ。」
紬は、何も言わなかった。蓮が静かに口を開いた。
「送ります」
「蓮さんまで……」
「送ります」
穏やかな声だった。それ以上、何も言わない。紬はしばらく蓮を見ていた。それから、小さく頷いた。
「……お願いします」
店を出る。夜の気配が、町に降り始めていた。いつもの道だった。何度も歩いた道。けれど、今日は何かが違って見えた。
紬は、ほとんど話さなかった。蓮も、無理に話しかけなかった。隣を歩く足音だけが、静かに続いていく。しばらくして、紬がぽつりと言った。
「母が」
蓮は、紬を見る。
「しばらく、この町にいるそうです」
「そうですか」
それだけだった。紬は、少しだけ蓮を見た。もっと何か聞かれると思っていた。親子なのにどうしてこんなにぎこちないのか。何があったのか。紬は大丈夫なのか。
けれど、蓮は何も尋ねなかった。ただ、紬の歩く速度に合わせて歩いていた。
「……はい。」
紬は小さく答えた。それからまた、黙った。アパートに着く。蓮は、建物の前で足を止めた。
「着きました。」
「……ありがとうございました。」
「はい。」
紬は、鍵を取り出した。蓮は、その様子を見届けると、一歩下がった。
「では」
「……はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
蓮は、自宅の方角に向かって歩き出した。紬は、その背中を見送った。
いつもなら、もう少し何か話していた。今日なら、デートの話をするはずだった。日曜日にどこへ行くのか。何時に待ち合わせるのか。そんなことを考えていたはずだった。けれど今は、母の声が頭の中に残っている。
――私、しばらくこっちにいることになったから。
紬は、アパートの前に立ったまま、動かなかった。鍵を握った手に、力が入る。帰る場所は、ここにある。
それなのに。
母がこの町に戻ってきたことで、遠い昔の自分まで、突然この場所へ連れ戻されたような気がした。




