ロールパンと青天の霹靂(後編)
夕方、ククノチの扉が開いた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
顔を上げた紬は、蓮の姿を見つけると、ふっと表情を緩めた。
「今日は少し遅かったですね」
「すみません。学校で生徒の相談に乗っていました」
「何かあったんですか?」
「留学したいという生徒で」
蓮はいつもの席に腰を下ろした。紬はカウンターの中で、今日の出来事を思い出す。
「留学ですか。いいですね」
「本人も、行きたいとは思っているんです」
「とは?」
「英語が十分に話せないから、まだ無理なんじゃないかと」
紬は、少し考えるように首を傾けた。
「英語が話せないと、やっぱり難しいんですか?」
「困ることはあると思います」
蓮はそう言ってから、少し笑った。
「でも、話せるようになってから行かなければいけないわけではありません」
「そうですよね」
「僕も、子どもの頃は英語なんてほとんど話せませんでしたから」
「そうなんですか?」
「祖父の知り合いで、外国の方がよく家に来ていたんです。特にインドの方と話す機会が多くて」
「蓮さんのおじいさんって、いろんな人と付き合いがあったんですね」
「そうですね」
蓮は、少し遠くを見るような目をした。
「英語が分からなくても、話したかったんです」
「話したかった?」
「はい。だから、知っている言葉を使って、分からなければ別の言い方をして。身振り手振りも使っていました」
「すごいですね」
「子どもだったからできたのかもしれません」
「大人になると、できなくなるんですか?」
「できなくなるわけではありません」
蓮は少し考えてから、続けた。
「ただ、考えることが増えるんです」
仕事。
お金。
家族。
生活。
行きたいと思っても、気持ちだけでは動けないことが増えていく。
「だから、その生徒には、英語の力が十分になってから行く必要はないと思う、と話しました」
「はい」
「行きたいと思った気持ちまで、英語ができないからという理由で消さなくていいんじゃないか、と」
紬は静かに聞いていた。
「それで、その子はどうしたんですか?」
「行きたい、と言っていました」
「じゃあ、行くんですね」
「まだ、決めたわけではありません」
「でも、行きたいって言えたんですよね」
「はい」
蓮は微笑んだ。
「決めた時が、その人にとって出発できる時なんだと思います」
紬は、その言葉をしばらく考えていた。
「……先生って、やっぱり先生ですね」
「今さらですか?」
「いえ。いつも先生だなとは思っています」
「そうですか?」
「はい」
紬は笑った。
「人の話を聞いて、その人が自分で決められるようにするというか」
「そんなに立派なものではありませんよ」
「でも、今日もその生徒さんの背中を押したんですよね」
「押したつもりはないんですけどね」
「でも、行きたいって言えた」
「そうですね」
2人の間に心地よい沈黙が流れる。紬はふと、昼間の男性客のことを思い出した。
「あ」
「どうしました?」
「今日、いつものお客さんが来たんです」
「以前話していた方ですか?」
「そうです」
蓮も思い出したようだった。
「いつも同じパンを買う方ですね」
「はい。今日は、二つ買っていったんです」
「二つ?」
「はい」
「珍しいですね」
「ですよね」
紬は少し笑った。
「だから、もしかしたら誰かに会いに行ったのかなって」
「どうしてそう思うんですか?」
「二つ買ったので」
「それだけですか?」
「はい。それだけです」
紬は真面目な顔で答えた。蓮は小さく笑った。
「そうだといいですね」
「はい」
紬も笑った。
「ちゃんと、渡せているといいなと思います」
パンを。それとも、気持ちを。どちらなのかは分からない。
けれど、店を出ていった男性の背中は、いつもより少しだけまっすぐに見えた。
蓮は、少しだけ黙った。紬は、その沈黙を不思議に思って蓮を見る。
「……どうしました?」
「いえ」
蓮は、少し考えるように視線を落とした。
「僕も、勇気を出してみようかなと思って」
「蓮さんも?」
紬は目を瞬いた。
「はい」
「何か、勇気を出さないといけないことがあるんですか?」
「あります」
蓮は、紬を見た。
「紬さん」
蓮が呼んだ。
「はい?」
「この前のことなんですが」
「この前?」
「僕が風邪をひいた時のことです」
「ああ……」
紬は少し照れたように笑った。
「元気になってよかったです。」
「きちんとお礼をしたいと思っていまして」
「そんな、大したことはしていません」
「僕にとっては、そうでもありませんでした」
蓮は、紬を見てから言った。
「今度の日曜日、空いていますか?」
紬は、一瞬、意味が分からなかった。
「……日曜日ですか?」
「はい」
「何かあるんですか?」
「よかったら、どこかへ行きませんか」
紬の胸が、わずかに跳ねた。
「どこかへ……」
「はい」
蓮は、いつもと変わらない顔をしている。紬は、何かを聞くべきなのか迷った。そして、つい口にしてしまった。
「それは……この前の看病のお礼、ですよね?」
言ってから、聞かなければよかったと思った。もし「はい」と言われたら。なぜか、少しだけ残念な気がした。蓮は、少し考えた。
「もちろん、それもあります」
「それも?」
紬が顔を上げる。蓮は、穏やかに言った。
「デートです」
「……え?」
「デートです」
紬の思考が止まった。
「……デート?」
「はい」
「私と?」
「はい」
紬の顔が、少しずつ熱くなっていく。
「……」
何か言わなければいけない。でも、何を言えばいいのか分からない。
「嫌でしたか?」
「嫌じゃないです!」
反射的に答えてしまった。言った瞬間、紬はさらに赤くなった。
「……あ」
蓮は、少し笑った。
「そうですか」
「いえ、そういう意味ではなくて……」
「どういう意味でしょう?」
「分かりません……」
紬は、とうとう顔を伏せた。蓮はそんな紬を見て、静かに笑った。
「では、決まりですね」
「……はい」
「楽しみにしています」
「……私も」
紬が小さな声で答えた。その時だった。店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
紬は、まだ少し赤い顔のまま、反射的に声をかけた。返事はなかった。蓮が、ふと入り口を見る。紬も顔を上げた。
そこに立っていた女性を見た瞬間、紬の表情から笑みが消えた。
「……紬」
その声を、紬は知っていた。忘れたことなど、一度もなかった。母の声だった。店の奥で、千鶴は手を止めた。聞こえてきた声に、胸がざわつく。
そっと店内を覗く。そこに立っていたのは、美和だった。来ることは知っていた。近いうちにこちらへ来ると、電話で聞いていた。
だから、いつかこの日が来ることは分かっていた。分かっていたけれど。千鶴は、思わず心の中で頭を抱えた。
――今かいな。
ほんまに、今かいな。ついさっきまで、紬はあんなに赤い顔をしとったのに。蓮と出かける約束をして。嬉しそうにしとったのに。よりによって、その直後かいな。
千鶴は目を閉じた。もう少しだけ、後でもよかったじゃろうに。けれど、来るべき時は来る。いつまでも先延ばしにするわけにはいかんことも、千鶴には分かっていた。
紬は、動けずに母を見ていた。蓮は、紬の隣で静かに美和を見ている。店の中に、沈黙が落ちた。
店の外では、夕方の風に大きなシダの葉が揺れていた。その葉の向こうで、日が少しずつ傾いていく。紬の知らないところで、時間はずっと進んでいた。
そして今、その時間が、突然、目の前に立っていた。




