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ロールパンと青天の霹靂(前編)

 昼を少し過ぎた頃、ククノチの扉が開いた。


「いらっしゃいませ」


 紬が顔を上げると、常連の男性が入ってきた。最近、よく来るようになった客だった。いつも同じロールパンを一つだけ買って帰る。けれど今日は、店に入るなり、いつもの棚の前で立ち止まった。


「こんにちは」


「こんにちは。今日はどうされました?」


「……あの」


 男性は、少し迷ったように紬を見た。


「相談してもいいですか?」


「はい。私でよければ」


 紬はカウンターの前に立った。男性は、少しだけ息を吐いた。


「好きな人がいるんですけど。」


「はい」


「十歳くらい年下で。ちょうどパン屋さんくらいの年齢の子なんですけど。」


 紬は、内心驚いたが顔に出さずただ、静かに話を聞いた。


「……だけど、どうしたらいいのか分からなくて」


「告白するかどうか、ですか?」


「それもあります」


 男性は頭を掻きながら苦笑した。


「今の関係を壊したくないんです。今は普通に話せるし、向こうも普通に接してくれる。でも、もし自分の気持ちを伝えて、気まずくなったらと思うと……」


「はい」


「それに、十歳も下ですから。迷惑かもしれない」


 紬は少し考えた。


「迷惑かどうかは、その人が決めることだと思います」


「……そうですよね」


「それに」


 紬は、男性を見た。


「好きになったことまで、迷惑だと思わなくてもいいんじゃないですか?」


 男性は、ハッとすると黙った。紬は続けた。


「好きになったことは、悪いことじゃないので。伝えるかどうかは、あなたが決めたら良いと思います。だけど私は、好きになった自分の気持ちを、最初から諦めなくてもいいと思います」


 男性は、しばらく考え込むように黙っていた。それから、棚の方へ視線を向けた。


「……いつもの、ください」


「はい」


 紬がパンを袋に入れる。男性は、いつものパンを受け取った。けれど、そのまま帰ろうとはしなかった。


「それと」


「はい?」


「これも」


 男性が指差したのは、紬が以前勧めたパンだった。


「こちらもですか?」


「はい」


 紬は、少しだけ笑った。


「二つですね」


「……はい」


 男性は財布を取り出した。会計を済ませると、袋を受け取る。その顔には、先ほどまでの迷いが少しだけ薄れていた。


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


 男性は扉へ向かった。紬は、いつものように見送る。扉が開く。外の光が、店の中に差し込んだ。

男性は一度だけ振り返った。


「……行ってきます」


 紬は少し目を瞬いた。


「はい」


 それから、自然に言葉が続いた。


「いってらっしゃい」


 男性は、はにかんだように笑い、店を出ていった。


 扉が閉まる。紬はしばらく、その背中が消えるのを見ていた。


「……二人分、なのかな」


 小さく呟く。もちろん、本当のことは分からない。

 ただ、二つのパンを持って出ていった男性の背中は、いつもより少しだけまっすぐに見えた。





 その日の午後。蓮は学校で、一人の生徒と向き合っていた。


「先生、留学って……英語が話せないと無理ですか?」


 生徒は、机の上に置いたパンフレットを見つめていた。


「どうしてそう思うんですか?」


「だって、海外に行って英語が話せなかったら、何もできないじゃないですか」


「そうですね。困ることはあると思います」


 蓮がそう答えると、生徒は顔を上げた。


「やっぱり無理ですよね」


「無理とは言っていません」


「でも……」


「英語が話せないまま行けば、困ることはあるでしょう」


 蓮は落ち着いた声で続けた。


「ただ、英語が話せるようになってから行かなければならない、という決まりもありません」


 生徒は黙った。蓮は、ふと祖父のことを思い出した。幼い頃、祖父のもとには、さまざまな国の人が訪れていた。特にインドから来た人たちとは、何度も話す機会があった。

 当時の蓮は、英語などほとんど話せなかった。それでも、相手が笑ってくれると嬉しくて、知っている単語を並べて話そうとした。間違えても、何度も言い直した。


「僕も、最初から英語が話せたわけではありません」


「先生も?」


「はい」


「でも、外国の人と話してたんですよね?」


「話していました」


「どうやって?」


 蓮は少し笑った。


「話したかったので」


 生徒は、きょとんとした。


「それだけですか?」


「それだけです」


 蓮は頷いた。


「話したいと思ったので、知っている言葉を使いました。分からなければ、別の言い方をしました。身振り手振りも使いました」


 生徒は、パンフレットへ視線を落とした。


「でも……大人になったら、もっと行きにくくなりますよね」


「行けなくなるわけではありません」


 蓮は答えた。


「ただ、考えなければならないことが増えるんです」


 大人になるほど、行きたいという気持ちだけでは動けなくなることもある。


「だから、英語が完璧になるまで待つ必要はないと思います」


 生徒が顔を上げる。


「じゃあ、いつ行けばいいんですか?」


 蓮は少しだけ考えた。


「それは、あなたが決めることです」


「……」


 蓮は穏やかに言った。


「決めた時が、その人にとって出発できる時なんだと思います」


 生徒は、しばらく黙っていた。やがて、パンフレットを閉じた。


「……俺、行きたいです」


 蓮は微笑んだ。


「そうですか」


「行くために、何が必要か調べたいです」


「では、一緒に調べてみましょうか」


「はい」


 生徒の返事を聞きながら、蓮は静かに頷いた。その日の夕方。


 蓮はいつものように、ククノチの扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


 紬が顔を上げる。


「こんばんは」


「こんばんは」


 いつもの時間。いつもの店。そして、いつもの二人の時間が始まった。

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