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仲直りのバケット(後編)

 夕方の店内には、昼間の賑わいが嘘のような静けさが戻っていた。紬は空になった棚を眺めながら、度小さく息を吐いた。


「先生の分、なくなっちゃったな……。」


 千鶴は厨房の奥で、その声を聞いていた。


「また明日の分があるよ。」


「そうだよね。」


 紬は振り返って笑った。


「そうなんだけど」


「そうなんだけど?」


「……今日は、いつもより忙しかったから仕方ないね。」


 それ以上は言わなかった。忙しかった日に、蓮がパンを食べてホッとする顔を見るのは癒しだ。その顔が見られないのは少し残念である。

 千鶴は、何も聞かずに鍋を片付ける。しばらくして、店の扉が開いた。


「こんばんは」


 蓮だった。紬は顔を上げ、店の扉の方を見た。


「こんばんは」


 その声が、少しだけ弾んだ。


「今日は遅かったですね」


「そうですか?」


「いつもより少しだけ」


「今日は職員室を出るのが遅くなりまして」


 蓮はいつもの席に座った。


「先生も忙しかったんですね」


「はい。今日は夕方に会議がありました」


「お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


 蓮は店内を見回した。


「今日は、ずいぶん売れたみたいですね」


「はい」


 紬は少し嬉しそうに頷いた。


「スープセットが、思っていたより出ました」


「それはよかったですね」


「本当に」


 紬はカウンターの向こうで、今日一日のことを話し始めた。

 どれくらい注文があったこと。思ったより早くスープがなくなったこと。パンもいつもよりたくさん売れたこと。

 蓮は、時々相槌を打ちながら聞いていた。


「それなら、僕の分がなくなっていても仕方ありませんね」


 蓮が言った。紬は少し申し訳なさそうに笑った。


「すみません」


「謝ることではありませんよ」


「でも、いつも来るので、頭にはあったのですが。」


 言ってから、紬は言葉を止めた。来る前提で話してしまった。蓮は、そんな紬を見ていた。


「気にしてくれてありがとう。」


 それだけ言って、微笑む。


「今日はパンだけいただきます。」


「はい」


 紬も笑った。残っていたパンを一つ選び、蓮の前に置く。


「スープはまた、次回楽しみにしています。」


「明日は、もう少し多く作る予定なので。」


「僕の分も計算に入っていますか?」


 蓮が尋ねる。紬は少し考えてから頷いた。


「その予定です。」


 蓮は、ほんの少しだけ目を細めた。


「ありがとうございます。」


 紬はその表情を見て、なぜか少しだけ嬉しくなった。


「そう言えば今日、ちょっと変わったお客さんが来たんです。」


「変わった?」


「いえ、変わったというか……。」


 紬は今日の女性を思い出した。


「娘さんにパンを買って行かれた方がいて。」


「娘さんに?」


「はい。少し喧嘩をしているそうで。」


 蓮はパンを手に取りながら聞いていた。


「それで、パンを持って会いに行くって。」


「仲直りですね。」


「最初は、行こうかどうしようか迷っていたんです。」


 紬は、女性がブリオッシュを見つめていた時のことを思い出す。


「でも、パンを持って行くことが、会いに行くきっかけになるかもしれないって話をしました。」


「紬さんが?」


「はい。」


「なるほど。」


 蓮は、少し笑った。


「紬さんらしい言葉ですね。」


 紬は、少し照れたように笑う。


「そうですか?」


「いつも、迷っている方の背中を押す言葉を選んでいるので。」


 紬は少し考えた。


「……そうかもしれません」


 それから、棚の方へ視線を向けた。


「パンって、不思議ですね。言葉の代わりに気持ちを運んでくれる気がします。」


 蓮は、紬を見た。紬は続けた。


「会いたいとか、心配しているとか、仲直りしたいとか。そういうことを、直接言えなくても」


 紬は、少しだけ笑った。


「パンは代わりに伝えてくれる時があります。」


 蓮は紬の言葉を、頷きながら静かに聞いていた。紬は、少し間を開けると、ふと遠くを見るような目をした。


「……昔、私もそうだったな。」


「昔?」


「母に」


 紬は言った。


「母に、パンを買って帰ることがありました」


 蓮は、続きを待つかのように、静かに聞いている。


「ククノチに来た帰りに」


 紬は、棚に並ぶパンを見た。


「今日はこんなパンがあったよって」


「お母さんは喜んでいましたか?」


「はい」


 紬はすぐに答えた。


「喜んでくれていました」


 その声は確信しているようだった。


「私がククノチに遊びに行くことも、昔は喜んでいたんです。」


 蓮は、紬の顔を見た。


「そうなんですね」


「はい」


 紬は笑った。


「今日は何があったのって、いつも聞いてくれて」


 その記憶を思い出すように、紬は少し目を細めた。


「私は、ククノチであったことを何でも話していました」


「パンを通して起こったことも?」


「もとろんそのことも」


 紬は頷いた。


「誰かが嬉しそうだったとか、悲しそうだったとか」


 そこで、紬は少し言葉を止めた。


「……そういうことも」


 蓮は、急かさなかった。紬が自分から話すまで、何も言わない。


「でも」


 紬は、ゆっくり続けた。


「いつからか、母にそう言う話は、人に話さない方がいいと言われるようになりました。」


 蓮の表情が少し変わった。


「紬さんの、特技ことを?」


「はい。」


 紬は頷いた。


「前は喜んでくれていたのに。」


 その声には、母親への怒りよりも、理解できなかった寂しさがあった。


「どうしてなのか、当時は分からなくて。」


 蓮はパンを置いた。


「今も、分からないんですか?」


 紬は少し考えた。


「……分からないというより、」


 その時だった。店の扉が開いた。カランカランとベルが鳴る。


「すみません!」


 二人が振り返る。今朝の女性が、少し急いだ様子で戻ってきていた。


「あ……!」


 紬が目を見開く。


「どうされましたか?」


 女性は、少し照れたように笑った。


「さっきのパンなんですけど」


「バケットですか?」


「まだ、ありますか?」


 紬はすぐに棚へ向かった。


「もちろんです。」


「あの後勇気を出して、娘のところへ持って行ったんです。」


 女性は、少し笑った。


「そうしたら……」


 そこで一度、言葉を止める。


「『お母さんも食べる?』って聞かれて」


 紬の顔が、ふっと緩んだ。


「それで?」


「スープの付け合わせに一つしか買っていかなかったから」


 女性は笑った。


「今度は、二人で食べる分を買いに戻ってきました。」


 紬は、バケット一本を袋に入れる。これならスライスして二人で食べられる十分な量だ。


「はい。お好きな大きさにカットして食べられますよ。」


 女性は袋を受け取った。


「これなら、二人で分けられますね。」


 紬は笑った。


「その方が、きっとおいしいですね」


「ええ」


 女性は嬉しそうに頷いた。


「そう思います」


 女性が店を出ていく。扉が閉まる。紬は、しばらくその方を見ていた。蓮も、その光景を眺めていた。

 女性の仲直りが上手くいき、戻ってきてくれたことが、嬉しかった。


「……よかったですね。」


 蓮が言う。


「はい」


 紬は頷いた。そして、その言葉は自然と口から溢れていた。


「母にも、またいつかパンを買って帰りたいな。」


 その言葉に、蓮は紬を見た。紬自身も、自分が何を言ったのかに気づいたようだった。


「私にその勇気が出せるでしょうか。」


 けれど、蓮は何も言わなかった。ただ、静かに笑った。


「紬さんが勇気を出せるように見守っています。」


 紬は蓮を見た。


「……失敗したら、慰めてくれますか。」


「もちろんそのときは、しっかり受け止めますよ。」


 店の外では、夜の気配が少しずつ濃くなっていた。今日、誰かのために買われたパンが、二人分になった。


 そして紬の中でも、ずっと遠くにあった母親との記憶が、ほんの少しだけ、今の時間に近づいていた。

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