仲直りのバケット(前編)
店先の黒板に、白いチョークで書かれた文字がある。
スープセット、はじめました。
その文字を見上げて、紬は少しだけ首を傾げた。
「もう少し大きく書いた方がよかったかな。」
「十分見えるよ。」
店の奥から千鶴の声がした。
「そう?」
「さっきから何人も立ち止まって見てるよ。」
「本当?」
紬が振り返る。千鶴は厨房の奥で、鍋の中のスープをかき混ぜながら笑っていた。
今日のスープは、かぼちゃのポタージュだった。焼きたてのパンと一緒に出すため、朝から千鶴と紬で仕込んでいた。
このセットは昨日始めたばかり。どれくらい注文が入るか読みきれず、スープの在庫が適切かどうかもまだ定かではない。パンを買いに来た客が、わざわざスープまで頼むだろうか。そんな不安も少しあった。
けれど、蓋を開けてみれば、昼前からスープセットを注文する客が続いた。
「スープセット、まだありますか?」
「はい。ございます」
「じゃあ、それを」
「ありがとうございます」
紬はパンを選び、テイクアウト用の容器にスープをよそう。また一人、客が帰っていく。その背中を見送ったところで、次の客が扉を開けた。
「今日は忙しそうねえ。」
近所の女性が笑いながら入ってくる。
「ありがたいことに。」
紬も笑った。
「スープセット、評判いいみたいよ。」
「本当ですか?」
「さっき向こうで食べとった人が、おいしい言ってたよ。」
「それは嬉しいです。」
紬の顔が明るくなる。その様子を、千鶴は厨房の奥から静かに見ていた。
紬は昔から、誰かがおいしいと言ってくれると、嬉しそうな顔をする。パンを作ることも、誰かに食べてもらうことも。その人の時間の中に、自分の作ったものが残ることも。紬にとっては、全部が同じくらい大切なのだ。昼を過ぎても、客足は途切れなかった。
その女性が来店したのは、少し落ち着き始めた頃だった。
「こんにちは。」
「こんにちは。いらっしゃいませ。」
紬が顔を上げる。時々ククノチに来る女性だった。女性は店内を見回し、それからスープの黒板を見た。
「スープセット、始めたのね。」
「はい。昨日からです。」
「じゃあ、それをいただこうかしら。」
「ありがとうございます。」
紬はスープの準備を始めた。女性はパンの棚の前に立つ。いくつかのパンを眺めたあと、ひとつのパンの前で足を止めた。
「……これにしようかしら」
手に取ったのは、バケットだった。紬がそのパンを受け取った。指先に、かすかな感情が触れる。迷い、寂しさ。そして、パンを渡して仲直りしたいとという気持ち。紬は、パンを見た。
「どなたかへ買って行かれるのですか?」
女性は少し驚いたように紬を見る。
「あら。分かる?」
「いつも好まれいるパンと違いましたので。」
紬は、すぐに付け加えた。
「違ったらすみません。」
「いいえ。」
女性は少し笑った。
「娘に持って行こうと思っているのよ。」
「娘さんに?」
「ええ。」
女性は、バケットを見た。
「近くに住んでいるんだけどね。」
そこまで言って、少し黙る。
「ちょっと、喧嘩をしているの。」
紬は何も言わずに聞いた。
「大した喧嘩じゃないのよ。たぶん。」
女性は苦笑した。
「でも、何となくこちらから連絡しづらくて。向こうも連絡してこないし。」
女性は、手の中のパンを見た。
「だから、これを持って行こうかなって。でも、今さらパンなんて持って行っても、変かしら」
紬は少し考えた。パンから伝わってきた感情は、寂しさ。この人は、娘に会いたい。けれど、会いに行く理由を探している。紬は、パンを女性に差し出した。
「娘さんの好物を持って行くのは、変じゃないと思います。」
女性が顔を上げた。
「そう?」
「はい。」
紬は微笑んだ。
「パンを渡して、すぐに仲直りできなくても。」
女性は黙って聞いている。
「まず、会いに行くきっかけにはなるかもしれません。」
女性は、しばらくバケットを見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……そうね。」
迷いが、ほんの少しだけ薄くなった。
「行ってみようかしら。」
「ええ。」
紬は頷いた。
「きっと、喜ばれると思います。」
言ってから、紬は少しだけ考えた。なぜそう思ったのか、自分でも分からなかった。けれど、女性は微笑んだ。
「そうだといいわね。」
会計を済ませる。女性はパンの入った袋を受け取った。
「ありがとうございました。」
「こちらこそ。」
女性は扉の前で一度振り返った。
「……行ってみるわ。勇気をありがとう。」
「はい!」
紬は笑った。
「お気をつけて。」
女性が店を出ていく。紬は、その背中が通りの向こうへ消えるまで見送った。
厨房の奥で、千鶴が鍋の蓋を閉じた。
「ええこと言うようになったねえ。」
「そうかな?」
紬は振り返った。
「たまたまだよ。、」
「たまたまでも、言えん時もあるんよ」
千鶴はそう言って、また鍋の方へ向き直った。紬は、少しだけ考えた。それから、店内を見回す。
午後になっても、スープセットはよく売れた。最初は一鍋で足りると思っていたスープが、思ったより早くなくなった。
「これ、もう少し作っておけばよかったね。」
紬が空になった鍋を見て言う。
「初日から売り切れなら、上出来じゃない。」
千鶴が笑った。
「そうかな?」
「そうよ。」
紬は、店内の棚を見た。パンも、いつもより少なくなっている。
夕方が近づき、ようやく店内に静けさが戻ってきた。紬は、ふと時計を見た。そろそろ、蓮が来る頃だった。いつもなら、この時間に仕事帰りの蓮が店に立ち寄る。
紬は、無意識に棚の端へ視線を向けた。今日は、朝から忙しくて。スープも、パンも。気がつけば、ほとんど売れてしまっていた。紬は、空になった棚を見た。
「……あ」
小さく声が漏れる。そして、少し困ったように呟いた。
「先生の分、なくなったな……」
いつもは、好きそうなパンをいくつか残しておくこともあった。
千鶴は、紬が少しだけ残念そうに棚を見つめている姿を、静かに見守っていた。




