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食パンと頼み事(後編)

 その日の閉店時間が近づいていた。紬は、店の奥で明日の仕込みに使う材料を確認していた。カウンターには蓮が残っている。


「今日は、少しゆっくりしていってくださいね」


 紬がそう言って奥へ行ったあと、店内には千鶴と蓮だけが残った。

 千鶴は、いつになく口数少なく、何か思案している様子だった。蓮は、いつもと少し違う空気を感じていた。千鶴はうん、と納得した顔をすると、蓮を見つめ徐に口を開いた。


「蓮くん。……あなたに、頼みたいことがあります。」


 千鶴が言った。


「僕に、ですか?」


「そう」


 千鶴は、カウンターの上に置かれた蓮のカップを見た。


「紬ちゃんの母親のことなんだけどね。」


 蓮は、静かに姿勢を正した。紬の母親。その話は、これまでにも何度か出てきた。

 紬がパン屋になることを反対されたこと。そのことが、紬の中に今も残っていること。けれど、蓮が知っているのは、それだけだった。


「美和は」


 千鶴は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「紬ちゃんを嫌っていたんじゃないの。」


 蓮は黙って聞いていた。


「むしろ、あの子は紬ちゃんのことを、よく見てた。」


 千鶴の目が、遠い記憶を見るように細められる。


「紬が小さい頃はね。ククノチから帰ってくるのを、楽しみにしていたの。」


「……そうなんですね」


「今日は何があったのか。誰が来ていたのか。どんなパンがあったのか。紬は、帰ってきたら何でも話していた。」


 千鶴は小さく笑った。


「美和も、それを聞くのが好きだったの。」


 蓮は、先日の紬の言葉を思い出していた。母親は、昔はククノチに行くことを喜んでいた。紬自身がそう話していた。それは、紬の記憶だけではなかったのだ。


「じゃあ、どうして……」


 蓮が言いかける。千鶴は、すぐには答えなかった。


「美和は、紬ちゃんの力を怖がったんじゃない」


 蓮の目が、わずかに動く。


「怖かったのは、その力を見た人間が、紬ちゃんに悪さをしようとしないかどうかだった。」


 千鶴は声を落とした。


「利用しようとする人間が出てくるかもしれない。紬ちゃんが傷つけられるかもしれない。あの子は、それを怖がってた。」


 蓮は、黙って聞いていた。それは、紬を守ろうとした気持ちだったのかもしれない。


「何か、すれ違いがあって紬さんは、傷ついてしまったんですね。」


 千鶴は、ゆっくり頷いた。


「その通り。」


 その答えに、迷いはなかった。


「美和に悪気がなかったとしても、紬ちゃんの傷は消えないんだけどね。」


 千鶴は、カウンターの向こうにあるパンの棚を見た。


「母親が自分の好きなものを嫌がるようになった。自分が大事にしとるものを、怖いものみたいに扱われた。」


 そこで、千鶴は一度言葉を止めた。


「それは、子どもの紬ちゃんには……あまりにも重い出来ごとだった。」


 蓮は、何も言わなかった。


「だから、私は下手に動けなかった。」


 千鶴が言った。


「美和の本当の気持ちを知ってたから、会わせれば分かり合えると思ったこともある。」


 けれど、と千鶴は続ける。


「もし、うまくいかなかったら。」


 その声が、少しだけ揺れた。


「もし、紬ちゃんがもう一度傷ついたら。」


 千鶴は目を伏せた。


「私は、あの子を一人で支えきる自信がなかったのよ。」


 蓮は、千鶴を見た。


「だから、時期を待っていたんですか?」


「待ってたんじゃない」


 千鶴は静かに首を振った。


「動けなかった。逃げてたようなものね。」


 千鶴の笑顔は苦しそうだった。その言葉が、店内に落ちた。しばらく、誰も話さなかった。やがて千鶴は、蓮を見た。


「でもね」


 蓮は、顔を上げる。


「今は、蓮くんがいるから。」


 蓮は、すぐには答えなかった。


「私は、紬ちゃんと美和を会わせようと思ってるの。」


 その言葉に、蓮の表情が変わった。


「会わせる……」


「そう」


 千鶴は頷いた。


「うまくいくかどうかは分からない。」


 美和が何を言うのか。紬がどう受け止めるのか。

千鶴にも分からない。


「失敗するかもしれない。」


 蓮は黙って聞いていた。


「その時は」


 千鶴は、蓮をまっすぐ見た。


「紬ちゃんのそばにいてやって。」


 蓮は、しばらく考えた。


「僕に、何ができるかは分かりません」


「何かしようとしなくてもいいの。」


 千鶴は言った。


「ただ、そばにいてくれるだけで助かる。」


 蓮は、静かに頷いた。


「……それなら、できます」


 その時だった。


「おばあちゃん?」


 店の奥から、紬の声がした。千鶴と蓮は、同時にそちらを向いた。


「何の話ですか?」


 紬が戻ってくる。千鶴は一瞬だけ蓮を見た。

それから、いつもの顔に戻った。


「あんたの昔の話よ」


「私の?」


「そう」


 千鶴は笑った。


「小さい頃のあんたは、よう喋ったって話」


「……それは、今もじゃない。」


 紬が少し不満そうに言う。蓮が笑った。


「確かに」


「蓮さんまで」


 紬は、少しだけ頬を膨らませる。千鶴は、その二人を見ていた。その夜、紬が帰ったあと。

 千鶴は一人、スマートフォンを手に取った。しばらく迷ってから、美和の名前を押す。


「……もしもし」


「美和?」


 短い沈黙のあと、千鶴は言った。


「そろそろ、紬ちゃんに会いに来ない?」


 電話の向こうで、美和が息を呑んだ。


「……でも。」


「まだ紬ちゃんに会うのが怖い?」


 千鶴は静かに続けた。


「会わないと、これっきりになっちゃうよ。」


電話を切ったあと、千鶴はしばらく店の外を眺めていた。


 店の外では、大きなシダの葉が夜風に揺れていた。

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