食パンと頼み事(前編)
スープセットを始めてから、ククノチの店先に立つ人が少し増えた。
黒板に書かれた「スープセット、はじめました」の文字は、もう目新しいものではなくなっている。
「今日は何のスープ?」
店に入ってきた常連客が、カウンターの向こうにいる紬へ尋ねた。
「今日は、きのこと玉ねぎのスープです」
「じゃあ、それにしようかな」
「ありがとうございます」
紬はスープを器によそい、パンを選ぶ。
「パンはどれにしますか?」
「いつものやつで」
「はい」
紬は迷わず、棚からパンを取り出した。最近、こういうやり取りが増えた。スープを楽しみに来る人。パンを買うついでに、スープを頼む人。
いつも同じパンを買い続ける人。その人たちの「いつも」が、少しずつククノチの中に増えていく。
紬は、そのことが嬉しかった。昼を過ぎた頃、一人の男性客が入ってきた。何度か来たことのある人だった。いつも同じパンを買う。
紬は、その人が棚の端にあるパンを見ていることに気づいていた。視線だけが、何度もそちらへ向く。けれど、手に取るのはいつも同じパンだった。今日もそうだった。男性は、いつもの食パンを手に取った。
「こちらも、今日焼き上がったばかりですよ」
紬は、棚の端のパンを指した。
「そうですか」
「もしよかったら」
男性は、勧められたパンを見る。少し迷った。
けれど、結局いつもの食パンを持ち上げた。
「いや、今日はいつものを」
「はい」
紬は頷いた。
「では、こちらで」
男性は会計を済ませて帰っていった。紬は、特に残念には思わなかった。その人が選んだのは、いつもの食パンだった。それだけのことだ。
夕方。仕事を終えた蓮が、いつものように店にやって来た。
「先生。こんばんは」
「こんばんは」
紬は顔を上げる。
「今日は少し早いですね。」
「すっかり来店時間を把握されていますね。」
「はは、そうですね。」
「今日は会議がなかったんでふ。」
「そうなんですね。」
蓮はいつもの席に座った。紬は、今日のスープの話をした。きのこと玉ねぎのスープがよく出たこと。
常連客が、最近はスープの種類を楽しみにしてくれていること。蓮も学校であったことを話した。
「今日は、生徒が授業中に妙な質問をしまして」
「どんな質問ですか?」
「英語の単語の語源についてです」
「先生が答えられる質問だったんですか?」
「うーん、質問があまりに突然だったので、一緒に調べてみました。」
紬が笑う。
「藤代先生らしいですね。調べ物は先生の方が楽しそうだったのでは?」
「どういう意味でしょう。」
「どう言う意味でしょうね?」
二人で笑った。しばらくして、蓮がパンを食べながら言った。
「そういえば、今日はお客さんに別のパンを勧めていましたね」
紬は少し驚いた。
「見ていたんですか?」
「たまたまです」
「そうですか」
紬は、昼間の男性客を思い出した。
「でも、買ってはもらえませんでした」
「先日の女性のようにはいかなかったんですね」
「はい」
紬は笑った。
「この前の方は、たまたまです」
蓮は、少しだけ首を傾げた。
「たまたま?」
「はい」
紬はカウンターの上を拭きながら話した。
「私が勧めたから買ってくれたわけじゃないと思います」
「そうでしょうか」
「その人が、その日に買おうと思ったから買ったんです」
紬は、先日の女性がパンを持って店を出ていった時のことを思い出した。
「私は、たまたまパンを勧めただけで」
「でも、背中を押したのでは?」
蓮の言葉に、紬は少し考えた。
「そうかもしれません」
それから、ゆっくり首を横に振った。
「でも、押されても動かない人もいますから」
蓮は黙って紬を見た。
「今日の人も、別のパンを気にしていたんです」
「はい」
「でも、いつもの食パンを選びました」
紬は、少しだけ笑った。
「それでいいんです」
「それで?」
「はい」
紬は、棚に並んだパンを見る。
「その人がいつものパンを選びたいなら、私はそれを渡せばいいので」
蓮は、パンを一口食べた。
「紬さんは、もっと勧めるのかと思っていました」
「私がですか?」
「はい」
「どうしてですか?」
「その人が求めているパンが、よく分かるからです」
紬は、少し困ったように笑った。
「分かっても、その人がどうするかは別です」
蓮は何も言わなかった。
「パンを勧めたら、みんなが買ってくれるわけじゃないですから」
紬は、いつものように穏やかな声で続けた。
「買わなくてもいいんです」
「はい」
「その人が、自分で選んだものなら」
蓮は、紬の言葉を聞いていた。
紬は、自分が何を言っているのか、深く考えている様子はなかった。ただ、店で毎日人を見ているから。パンを選ぶ人を見ているから。
そういうことを、自然に知っているだけなのだろう。
「……紬さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
蓮は微笑んだ。
「おすすめを買うかどうかは委ねている。」
紬は、少しだけ目を瞬いた。それから、ゆっくり頷いた。
「そう言うことになりますね。」
店の外が、少しずつ暗くなっていく。棚には、まだいくつかのパンが残っていた。その中から、誰かが自分の食べたいものを選ぶ。紬は、その選択を待つ。急かすこともなく。決めてしまうこともなく。
ただ、その人が選んだものを、そっと手渡す。それが、紬のやり方だった。




