風邪引きのパンとスープのセット(後編)
蓮は、ゆっくりとスープを口に運んでいた。熱があるせいか、普段より食べる速度が遅い。それでも、スープを一口、パンを一口と、少しずつ食べている。紬は、向かいの椅子に座ってその様子を見ていた。
「そんなに見られると、少し緊張しますね。」
「見ていません。」
「見ていますよ。」
「ちゃんと食べているか確認しているだけです。」
「それを、見ていると言うのでは?」
蓮が少し笑った。その笑顔に、さっきよりも少しだけ元気が戻っているように見え、紬はほっとする。
「先生のご実家は、風邪をひいた時はいつもお粥だったんですか?」
ふと、そう尋ねた。
「僕ですか?」
「はい」
「そうですね。母が作ってくれていました。」
蓮は、スープの器を見ながら答えた。
「寺の家だったので、風邪をひいた時はお粥でした」
「やっぱり」
紬は思わず笑った。
「何がやっぱりなんですか?」
「お寺と伺っていたので、精進料理に近いものが出ていたのかなと。」
「なるほど。その通りです。」
蓮は穏やかに笑った。
「僕の母も、優しかったですよ。」
その声に、何か引っかかるものはなかった。
「ただ……」
「ただ?」
「お粥が、あまり好きではありませんでした」
「お粥が?」
「精進料理のお粥は味がしないんです。ほんの少しごま塩をスプーンの先につけることは許されるんですけど。」
紬は、思わず目を丸くした。
「味がしない?」
「ほとんどありませんでした。」
蓮は、遠い昔を思い出すように目を細めた。
「寺院でしたので、風邪の時出てくるのは精進料理で。子どもの僕には、熱がある時に味のないお粥を食べるのが、どうしても苦痛でした。」
紬は、少し笑った。
「先生にも、そういう子どもらしいところがあったんですね」
「ありましたよ」
「想像できません」
「ひどいですね」
蓮は、少しだけ不満そうな顔をした。けれど、その表情もどこか柔らかい。
「母に、ちゃんと食べなさいと言われていました」
「先生も言われていたんですね」
「はい」
「今でも?」
「今は……どうでしょう」
蓮は少し考えてから、笑った。
「たぶん、今でも言われると思います」
「お母さん、優しいですね」
「はい」
蓮はそう答えた。短い言葉だった。でも、その中には、母親への信頼があった。
紬は、少しだけ羨ましいと思った。自分の母親も優しかった。それは間違いない。けれど、いつからか母親の中に、自分を恐れる気持ちが生まれた。母は隠そうとしていたけど。
それが、紬には分かっていた。だから、優しかった母親を嫌いになることはできなかった。
優しかった母親を知っているからこそ、怖がられることが苦しかった。けれど、そのことを今、蓮に話すつもりはなかった。
紬は、蓮の前に置かれたスープを見た。
「もう少し食べられそうですか?」
「はい。」
「無理はしないでくださいね。」
「分かっています。」
「先生は、具合が悪い時も大丈夫と言いそうなので。」
紬が言うと、蓮は少し困ったように笑った。
「そんなに分かりやすいですか?」
「はい。」
「そうですか。」
「そうです。」
蓮は、少し考えてから言った。
「では、今日は大丈夫ではありません」
紬は、思わず蓮を見た。蓮は、熱のためか、いつもより素直だった。
「……そうですね。」
「はい。」
「今日は、ちゃんと具合が悪そうです。」
「それは、先ほどから言われています。」
「では、ちゃんと休んでください。」
「紬さんがそう言うなら。」
また、その言葉だった。紬は、どうして蓮がそういう言い方をするのか分からなかった。
ただ、言われるたびに胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。自分の言葉を、蓮が受け入れてくれている。それが、嬉しかった。蓮はスープを食べ終えた。
「ごちそうさまでした。」
「はい。」
「本当に美味しかったです。」
「よかったです。」
紬が器を片付けようとすると、蓮が手を伸ばした。
「僕がします。」
「駄目です。」
「なぜですか?」
「風邪をひいているからです。」
「でも、食器くらいは、」
「私がします。」
紬は、蓮から器を受け取った。その時、指先が触れた。ほんの一瞬のことだった。それなのに、紬は反射的に手を引いた。
「あ……。」
「すみません。」
「いえ。」
蓮も、少しだけ目を逸らした。その沈黙が、妙に気まずかった。紬は食器を持って、キッチンへ向かった。水を出し、食器を洗う。背中に蓮の視線を感じる。
「先生?」
「はい。」
「寝ていてください。」
「はい。」
「本当に寝ていますか?」
「まだです。」
「寝てください。」
「努力します。」
紬は、思わず笑ってしまった。それから、食器を洗い終える。キッチンを片付け、持ってきた袋をまとめた。もう帰る時間だった。
蓮も、薬が効いてきたのか、少し眠そうにしている。
「私は、そろそろ帰りますね」
蓮は、ゆっくりと顔を上げた。
「もう帰られるんですか?」
「はい。先生も眠れそうなので。それに、祖母に風邪をひいている人の家に長居してはいけないと言われましたし。」
「……そうですか。」
その声が、ほんの少しだけ残念そうに聞こえた。紬は、足を止めた。
「何か?」
「いえ。」
蓮は目を伏せた。それから、少し笑った。
「今日は、ありがとうございました。」
「いえ。こちらこそ。」
「こちらこそ?」
「スープとパンを食べてもらえてよかったです。」
「それだけですか?」
蓮が言った。紬は、少し驚いた。
「え?」
蓮は、少しだけ困ったように笑った。
「いえ。何でもありません。」
「先生?」
「今日は、来てくださってありがとうございました。」
先ほどと同じ言葉だった。でも、今度は少し違って聞こえた。紬は、静かに頷いた。
「はい、ではまたお店で。」
玄関へ向かう。靴を履く。扉に手をかけた。
「紬さん。」
呼び止められて振り返る。蓮は、布団の中からこちらを見ている。
「はい。」
「風邪をひくのも、悪くないですね。」
「……え?」
「紬さんが来てくださったので。」
紬は、言葉を失った。蓮は、そんな紬を見て、少しだけ笑った。
「……すみません。」
「何がですか?」
紬は頬が熱を帯びているのを感じた。熱があるのは蓮の方なのに。
「早く治してくださいね。」
「はい。」
「ちゃんと休んでください。」
「はい。」
「食事もしてください。」
「はい。」
「水分も取ってください。」
「はい。」
「……返事だけはいいんですね。」
「紬さんの言うことなので。」
まただ。紬は、何も言えなくなった。蓮は、少しだけ目を細めた。
「それに」
「はい?」
「風邪をひいていない時にも、スープとパンを食べに行かなくてはならないので。」
紬は、はっとした。自分がつい先ほど言った言葉を思い出した。
——今度は風邪をひいてない時に、スープとパンを食べに来てください。
「あれは……、その……。」
紬は言葉に詰まった。蓮は、そんな紬を見ている。いつものように穏やかな顔で、けれどどこか楽しそうに。
「楽しみにしています。」
紬は、ますます顔が熱くなった。
「……では、お大事にしてください。」
それだけ言って、急いで玄関を出た。扉を閉める。外の空気が冷たかった。
紬は、火照った頬に手を当てた。蓮は、風邪をひいている。熱もある。だから、きっと普段より少し素直になっているだけだ。じゃないと、ちょっと破壊力がありすぎる……!!そう思おうとした。
風邪をひいていない時にも、スープとパンを食べたいと言われたような気がした。紬は、少しだけ立ち止まった。それから、ひとりで小さく息を吐いた。
「……先生は、ずるい。」
誰にも聞こえない声で呟いた。その頃、家の中では。蓮が布団の中で、目を閉じていた。紬が来てくれた。それだけで、思っていた以上に嬉しかった。
スープとパンを食べながら聞いた、紬の母親の話も心に残っている。紬の母親は、優しかった。紬はそう言った。その声には、迷いがなかった。
だからこそ、蓮はそれ以上尋ねなかった。紬が話したいと思った時に、話せばいい。紬の母の話は、少しずつ聞けたら、それでいい。
蓮は、目を閉じたまま小さく笑った。
「……風邪をひくんも、悪くないものじゃなあ。」
今度は、誰にも聞かれない声で呟く。けれど、その言葉は熱のせいではなかった。紬が来てくれたことが嬉しかった。それは、確かなことだった。
翌朝。
ククノチの店先には、また黒板が出ていた。
スープセット、始めました。
紬は、その文字を見ながら、昨日のことを思い出していた。蓮は、もう熱が下がっただろうか。ちゃんと食事をしただろうか。水分を取っただろうか。 そんなことを考えている自分に気づき、紬は小さく首を振った。
「紬ちゃん。」
千鶴が店の中から声をかける。
「はい。」
「そう言えば蓮くん、どうだった?」
「結構、熱があったよ。」
「そう。心配だねぇ。」
「ちゃんと寝るように言ってきた。」
「そう」
千鶴は、それ以上何も聞かなかった。ただ、紬の顔を見て、少しだけ笑った。
「何?」
「別に。」
「何か言いたそうだけど。」
「何も言ってないでしょう。」
紬は、黒板に視線を戻した。その時、店の前に人影が見えた。
「おはようございます」
聞き慣れた声だった。紬が振り返る。蓮が立っていた。
「先生?」
「おはようございます。」
「もう大丈夫なんですか?」
「熱は下がりました。」
まだ少し声が枯れている。
「でも、まだ休んでいた方がいいんじゃ……。」
「今日は学校に行く予定です。」
「無理はしないでくださいね。」
「はい。」
蓮は、黒板に視線を向けた。
そして、そこに書かれた文字を見て微笑んだ。
「スープセット、始めたんですね。」
「はい。」
「風邪をひいていなくても、食べに来てもいいですか?」
紬は、少しだけ目を見開いた。
「もちろんです。」
「では、今日は時間がありませんから、また今度。」
「はい。」
蓮は、少しだけ笑った。
「楽しみにしています。」
その言葉を聞いて、紬の頬がまた熱くなった。蓮は、昨日と同じことを言っただけだ。それなのに。
なぜか今日は、昨日よりも強く胸に残った。スープとパン。それは、小鳥遊家に代々受け継がれてきた、看病の形だった。
そして今。その習慣は、紬から蓮へも、ほんの少しだけ渡された。温かなスープとパンのように。
二人の距離も、少しずつ温まっていく。
まだ、誰もその変化に名前をつけてはいなかった。




