風邪引きのパンとスープのセット(前編)
ククノチの店先に、いつもの黒板が出ていた。
その日の朝、紬はチョークを手に取り、しばらく何を書くか考えてから、黒板の中央に文字を書いた。
スープセット、始めました。
その下に、今日のスープの内容を書き足す。季節の野菜をたっぷり使った、温かなスープ。そこに、店内のパンをひとつ選べるセットだった。
「どうかな?」
紬が少し離れて黒板を眺めていると、店の中から千鶴が顔を出した。
「いいんじゃない? 分かりやすくて。」
「本当に?」
「うん。あとは、パン屋でスープを始めた理由が分かればもっといいけどね。」
「理由?」
「紬ちゃん、看病の時のスープとパンから思いついたんでしょう?」
千鶴は、当たり前のように言った。
「風邪をひいた時は、スープとパン」
その言葉を聞いて、紬は少しだけ笑った。
「そうだったね」
小鳥遊家では、昔からそうだった。祖父母がパン屋を始めた頃から。紬の母が子どもだった頃も。
そして紬が幼かった頃も。体調を崩した時には、温かなスープとパンが出てきた。
「お母さんも、子どもの頃はおばあちゃんに看病してもらっていたんだよね」
「そう。あの子も、よく熱を出していたからね。」
千鶴は笑った。
「熱が出ると、スープを作って、パンを柔らかくして食べさせていた。」
「私にも同じことをしてくれていた。」
「あなたのお母さんも、ちゃんと受け継いでいたからね。」
紬は、黒板に書かれた文字を見た。スープとパン。それは、ただの食事ではなかった。紬にとっては、母親との記憶の中にあるものだった。
熱を出した時。母親はいつも、温かなスープを作ってくれた。パンは、そのままでは食べにくいからと、小さくちぎってくれた。
「これなら食べられる?」
そう聞かれたことを、紬は覚えている。熱でぼんやりした頭のまま頷くと、母親は少し安心したように笑った。
その記憶は、今も優しい。母親との間に、いろいろなことがあったとしても。その頃の母親が優しかったことを、紬は忘れていなかった。
「紬ちゃん。」
千鶴の声に、紬は顔を上げた。
「何?」
「今日のスープ、味見してみる?」
「さっきしたよ?」
「さっきはさっき。今は今。」
千鶴が真剣な顔をするので、紬は笑いながら鍋の蓋を開けた。湯気が立ち上がる。
野菜の甘い香りと、焼きたてのパンの香りが店内に広がった。その時だった。
「こんにちは」
店の入り口から声がした。紬が振り返ると、先日の手仕事市で英単語クッキーを販売していた生徒が立っていた。
「あら、こんにちは」
「こんにちは。今日から、スープセットがあるんですよね?」
「うん。始めたばかりだけど」
「じゃあ、それにします」
生徒はカウンターに座り、メニューを眺めた。紬がパンを選ぶのを手伝っていると、生徒がふと思い出したように顔を上げた。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「先生、今日も来てないんですか?」
「え?」
「藤代先生。風邪ひいて休んでるんですよ」
紬の手が止まった。
「先生が?」
「はい。昨日から」
「風邪……」
「昨日、学校でもちょっとしんどそうだったんですけど、先生は大丈夫って言ってて。」
紬は、思わず小さく息を吐いた。やっぱり。蓮は、きっと生徒に心配をかけまいと「大丈夫」と言ったのだ。
「熱があるの?」
「そこまでは分かりません。でも、今日は休んでます。」
「そう……。」
紬は、鍋の中のスープを見た。湯気が、ゆっくりと消えていく。なぜだか、さっきまでよりもスープが温かく見えた。
「紬ちゃん。」
千鶴が隣に立った。
「うん?」
「これ、持って行ったら?」
千鶴が視線を向けたのは、今温めていたスープだった。
「……え?」
「スープとパン」
「でも、突然ご自宅に行くのはどうかな。」
「何か都合が悪いことが?」
「そういう意味ではなくて……」
「じゃあ、何が問題なの?」
紬は答えられなかった。蓮の家に行ったことはない。店や学校で会うことはあっても、家を訪ねる理由など今までなかった。それなのに、風邪をひいたと聞いただけで、会いに行くのは、少し踏み込みすぎではないだろうか。
「先生、迷惑かもしれないし」
「紬さん」
千鶴が、穏やかな声で言った。
「あなたは、誰かが困っている時に、そんなことを考えてから助けに行くの?」
「……」
「行きたいなら、行けばいいのよ」
紬は、千鶴を見た。
「そこまで心配してないよ。先生も大人だし。」
嘘だった。気になっている。蓮が風邪をひいたと聞いてから、ずっと。ちゃんと食べているだろうか。薬は飲んだだろうか。一人で大丈夫だろうか。そんなことばかり考えていた。
千鶴は、それ以上何も言わなかった。ただ、スープの入った鍋を見ている。
「……持って行ってもいい?」
「もちろん」
紬は、スープを容器に入れた。パンも選んだ。柔らかくて、食べやすいものを。それから、少し考えて、蓮が好きそうなパンも一つ加えた。
そこまでしてから、紬は手を止めた。自分はもしかして大胆なことをしようとしているのでは? でも容器に移したスープは、もう戻せなかった。包みを手に店を出る。
「紬ちゃん。」
千鶴に呼ばれて振り返る。
「何?」
「帰りに、蓮くんが元気そうだったら、ちゃんと帰ってきなさいね。」
「……元気そうだったら?」
「元気そうなら、看病はいらないでしょう。」
「そうだけど。」
「風邪をひいている人の家に、長居しすぎないようにね。」
千鶴は、少しだけ笑った。
紬はその笑顔を見て、何か見透かされているような気がした。
「分かってる。」
そう答えて、歩き出す。蓮の自宅の場所は、さっきの生徒に教えてもらった。店からそれほど遠くない場所だった。
歩きながら、紬は何度も考えた。突然訪ねて、蓮は驚くだろう。迷惑に思うかもしれない。そもそも、家にいるかどうかも分からない。
それでも、引き返す気にはなれなかった。やがて、教えられたアパートの一室の前に着いた。紬は、扉の前で立ち止まった。
ここまで来てしまった。手に持ったスープとパンが、急に重く感じられる。インターホンに手を伸ばす。そして、一度引っ込める。もう一度、手を伸ばした。押す。
しばらくして、家の中から足音が聞こえた。ゆっくりとした足音だった。紬は、胸の奥が不安に締めつけられるのを感じた。
「はい……。」
インターホン越しの声は、いつもの蓮よりも低く、少しかすれていた。紬は、思わず背筋を伸ばした。
「先生、私です」
少しの沈黙。
「……紬さん?」
「はい。」
「どうして……。」
「風邪をひいたと生徒さんに聞いたので。スープとパンを持ってきました。」
再び沈黙があった。その後、玄関の扉が開いた。
「紬さん……。」
蓮は、普段より明らかに具合が悪そうだった。
長めの髪は、いつものようにハーフアップにされているものの、少し乱れている。髭も生えっぱなしで、顔色もよくない。
「先生、熱は?」
「少しあります。」
「何度ですか?」
「三十八度くらいです。」
「それは少しではないです。」
紬が思わず言うと、蓮は少し驚いたように目を瞬かせた。それから、かすかに笑った。
「すみません。」
「謝らなくていいです。寝ていてください。」
「はい。」
蓮は素直に頷いた。その素直さに、紬の方が戸惑った。
「……先生?」
「はい。」
「今日は、ずいぶん素直ですね。」
「そうですか?」
「はい。」
「熱のせいかあまり頭が働いていないかもしれません。」
蓮はそう言って、弱々しく笑った。紬は、さらに心配になった。
「とりあえず、スープを温めますね。」
「え?」
「食べていないでしょう?」
「少しは……?」
「何を? いつ?」
蓮は黙った。
「……覚えていません。」
「それは食べていないのと同じです。」
蓮は、また少し笑った。
「厳しいですね。」
「先生がちゃんとしないからです。」
言ってから、紬は自分の言葉に気づいた。まるで、蓮のことを叱っている。けれど蓮は、嫌そうな顔をしなかった。
「では、紬さんの言うことを聞きます。」
その言葉に、紬は目を瞬かせた。
「……はい?」
「何か食べます。」
蓮はスープが入った容器を受け取ろうと、ゆっくり動いた。その瞬間、身体がふらついた。
「先生!」
紬が咄嗟に腕を掴む。蓮の身体が、ほんの一瞬だけ紬の方に傾いた。すぐに蓮は体勢を戻した。
「すみません。」
「謝らないで。」
紬は、蓮の腕から手を離した。離した指先に、蓮の体温が残っていた。
「横になっていてください。私が温めますから。」
「紬さんが?」
「はい。」
蓮は、少しだけ目を細めた。
「……ありがとうございます。」
その声は、いつもより柔らかかった。紬は、蓮を寝室へ戻した。そしてキッチンへ向かう。スープを鍋に移し、火をつける。湯気が立ち上がる。温かな香りが、静かな家の中に広がっていった。
「……いい匂いですね。」
背後から、蓮の声がした。
「寝ていてください。」
「はい。」
「先生は、寝ているのか起きているのか、どちらなんですか?」
「起きています。」
「寝てください。」
「努力します。」
紬は、思わず笑った。蓮が少しだけ笑う気配がした。熱を出して、具合が悪いのに。それでも、こうやっていつものように会話をしようとする。
紬は、そんな蓮を見ていると、なぜか胸が温かくなった。スープが温まった。パンを皿に並べる。その時、蓮が静かに言った。
「紬さん。」
「はい。」
「風邪をひいたら、いつもスープとパンなんですか?」
紬は振り返った。
「はい。昔からです。」
紬は、湯気の立つスープを見た。
「祖父母がパン屋だったので。母も子どもの頃、祖父母に看病してもらった時は、スープとパンだったんだと思います」
「そして、紬さんにも?」
「はい。」
紬は、幼い頃の母を思い出した。
「母も、私が熱を出すとスープを作ってくれました」
蓮は、静かに聞いている。
「パンも、小さくちぎってくれました。熱があると食べにくいからって」
紬は、少し笑った。
「『これなら食べられる?』って」
母の声が、記憶の中から聞こえたような気がした。優しい声だった。あの頃の母は、確かに優しかった。
「……優しいお母さんだったんですね」
蓮が言った。
「はい」
紬は迷わず答えた。その答えを聞いた蓮は、何も言わなかった。過去に、紬が母との間に確執があったことは、夏に聞いたばかりだ。だからただ、それ以上は何も聞かず穏やかに紬を見ていた。
紬は、そんな蓮の視線に気づかないふりをして、スープをテーブルに運んだ。
「先生、食べられそうですか?」
「はい。」
「無理はしないでくださいね。」
「分かりました。」
「本当に?」
蓮は、少し笑った。
「紬さんがそう言うなら」
少しハスキーな声。髭が生え、乱れた髪。……色気がすごい。蓮を知る女子生徒たちが目撃したら刺激が強すぎて失神するだろう。紬の胸が小さく跳ねた。それを誤魔化すように、スプーンを蓮の前に置いた。
「では、どうぞ。」
「いただきます。」
蓮はスープを口に運んだ。しばらくして、ゆっくりと息を吐く。
「……美味しいです。」
「よかったです。」
「スープとパンの組み合わせ、いいですね。」
「小鳥遊家では昔からですから」
蓮は、パンを一口食べた。そして、少し考えるように言った。
「僕も、これからは風邪をひいた時はスープとパンにしようかな」
「先生はお寺の家の人なのに?」
紬が冗談めかして言うと、蓮は穏やかに笑った。
「そうですね」
それから、スープに視線を落とす。
「でも、小鳥遊家の習慣をひとつ分けてもらったということで」
紬は、返事をするまでに少し時間がかかった。
「……どうぞ」
やっとそう言うと、蓮は微笑んだ。その表情を見て、紬は思った。来てよかった。そう思ってしまった自分に、少しだけ驚いた。




