挑戦の英単語アイシングクッキー(後編)
最初の生地作りは、思ったよりも順調だった。
……最初だけは。
「先生、これ混ぜすぎじゃない?」
「どうでしょう。」
「紬さん、これ大丈夫? バターが溶けすぎた気がするんだけど。」
生徒の一人が、不安そうにボウルを覗き込む。紬は生地を確認した。
「大丈夫ですよ。肩を抜く前に生地をきちんと冷やせば軌道修正できます。」
「本当に?」
「はい。ここから粉を入れていけば、ちゃんとクッキーになります。」
「俺、こういうの苦手。向いてないんだよな。」
別の生徒が、少し投げやりに言った。紬はその生徒を見る。
「苦手なのと、できないのは違いますよ。」
生徒が顔を上げた。
「……そう?」
「はい。最初から上手にできる人はいませんから。」
紬は、生地を少しずつまとめていく。
「失敗したら、どうしたらいいか考えればいいんです。」
その言葉を、蓮は少し離れたところから聞いていた。紬は、他人にはそう言える。けれど、自分のことになると。
――私でいいのかな。
紬を講師に誘った時の言葉が、蓮の中に残っていた。蓮は紬を見る。
紬は、生徒の手元を覗き込みながら、丁寧に説明している。その表情は真剣だった。それでいて、生徒が上手くできると自分のことのように嬉しそうに笑う。
蓮は思った。自分は、紬のこういうところが好きなのだ。パン屋にいる時だけではない。誰かが少し前を向けるように、そっと手を添えるところ。それに一生懸命なあまり、自分自身のことは、いつも後回しにしてしまうから。
だからこそ自分くらいは、紬のことをちゃんと見ていたい。
「先生?」
紬がこちらを見た。
「はい。」
「何か考え事ですか?」
「いえ。」
蓮は少し笑った。
「紬さんが、教えるのが上手だなと思っていました。」
「そんなことないです。」
「ありますよ。」
即答だった。紬の手が止まる。
「……そうですか?」
「はい。」
蓮は、今度は目を逸らさなかった。
「僕は、そう思います。」
紬は何も言えなくなった。その様子を見ていた生徒が、隣の生徒に小さな声で囁いた。
「先生、あの人にだけ優しくない?」
「いつもだよ。あの人のこと好きからね。」
「そうなの?」
「多分ね。」
蓮は聞こえていたが、聞こえないふりをした。
英単語クッキーは、何度かの失敗を経て、少しずつ形になっていった。
LOVE。
HOPE。
SMILE。
DREAM。
中には、焼いている途中で形が崩れてしまったものもある。それでも、最後にはたくさんのクッキーが並んだ。
「次はアイシングですね。」
紬が言う。
「アイシングって何?」
「上に文字や模様を描くものです。」
「俺、絵苦手。」
「大丈夫です。」
紬が笑う。
「線を引くだけでも、十分かわいくなりますよ。」
生徒たちは、それぞれ好きな色を選んだ。紬は一枚ずつ、アイシングのやり方を見せる。細い線を引く。力を入れすぎない。急がない。
「先生もやってみる?」
生徒の一人が蓮にアイシングバッグを差し出した。
「僕は結構です。」
「逃げた。」
「僕は監督ですから。」
「また言ってる。」
紬が笑った。
「先生もやってみたらいいのに。」
「紬さんがそう言うなら。」
蓮はアイシングバッグを受け取った。そして、真剣な顔でクッキーに線を引く。結果。
「……先生。」
「はい。」
「これは、何ですか?」
紬が尋ねる。
「LOVEです。」
「……LOVE?」
「はい。」
「先生、これ……。」
生徒が横から覗き込む。
「なんか、カニみたい。」
「カニではありません。」
蓮は真顔で答えた。調理室に笑い声が響いた。蓮も、とうとう笑った。紬はその顔を見て、また胸が少し熱くなった。
学校で見る蓮は、少し違う。けれど、笑った時の表情は同じだった。
紬は、自分がその笑顔を見るのが好きなのだと、まだはっきりとは気づいていなかった。
手仕事市当日。会場には、たくさんの店が並んでいた。生徒たちの露店にも、次々と人が訪れる。
「HOPEください。」
「SMILE、二つ。」
「これ、どういう意味?」
英単語クッキーは思っていた以上に好評だった。紬は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
「よかったですね。」
蓮が隣に立つ。
「はい。」
「紬さんのおかげです。」
「私は、少しお手伝いしただけです。」
「それでもです。」
蓮はそう言って、並べられたクッキーを見た。色とりどりのアイシング。生徒たちが一生懸命作ったもの。そして、その中には紬が仕上げたものも混ざっている。
蓮は、一枚のクッキーに目を留めた。白いアイシングで、丁寧に文字が描かれている。少しだけ線が細く、端の部分に小さな揺れがあった。それが故に売れ残っているらしい。
「これにします。」
蓮が言った。
「え?」
紬が見る。蓮が手に取ったのは、英単語の形をしたクッキーだった。その表面には、紬がアイシングした文字が描かれている。
「先生、それ……。」
「はい。」
「それ、私がアイシングしたものです。」
「知っています。」
紬は目を見開いた。
「分かるんですか?」
「分かりますよ。」
「どうして……。」
蓮は、少しだけ笑った。
「ずっと見ていましたから。」
紬の頬が、一気に赤くなる。
「……ずっと?」
「はい。」
蓮はクッキーを見た。
「紬さんがアイシングしているところを。」
「でも、これ……少し歪んでます。」
「そうですか?」
「はい。ここの線が……。」
「僕は、これが好きです。」
紬は黙った。蓮は、クッキーを大切そうに持った。
「だから、これにします。」
「……他にも、きれいなものがありますよ。」
「そうですね。」
蓮は素直に頷いた。
「でも、僕はこれがいいです。」
紬は、何も言えなかった。自分が作ったものを。たくさんのクッキーの中から。蓮が選んだ。その事実が、胸の奥にじんわり広がっていく。
「この子が売れ残ったら、私が引き取ろうと思っていました……ありがとうございます。」
やっと、それだけ言った。
「こちらこそ。」
「え?」
「紬さんが作ったものが買えたので。」
蓮はそう言って、少しだけ笑った。紬の顔が、また赤くなる。その様子を見ていた生徒が、隣の生徒に小声で言った。
「先生、やっぱりあの人にだけ……。」
「だから、いつもじゃない?」
「そうなのか……。」
蓮は聞こえないふりをした。紬は聞こえてしまったらしく、さらに赤くなった。
イベントが終わり、片付けをしている時だった。蓮は買ったクッキーを、紙袋の中から取り出した。
「先生、食べないんですか?」
紬が尋ねる。
「はい。」
「クッキーなので、早めに食べた方がいいと思います。」
「そうですね。」
蓮はクッキーを見た。紬がアイシングした文字。少しだけ揺れた線。けれど、丁寧に描かれたもの。
「では、今日食べます。」
「はい。」
「大事に食べますね。」
紬は少し困ったように笑った。
「クッキーなので……。」
「分かっています。」
蓮も笑う。
「でも、紬さんが作ったものなので。」
紬の動きが止まった。
「……先生。」
「はい。」
「そういうこと、誰にでも言うんですか?」
蓮は紬の目をまっすぐに見て言った。
「言いませんよ。」
あまりにも迷いのない返事だった。紬は、完全に言葉を失った。蓮はそんな紬を見て、少しだけ目を細める。
「紬さんだから言っています。」
冷たい風が吹いた。紬の髪が揺れる。蓮は手を伸ばしかけて、止めた。
代わりに、風で乱れた髪を自分で直そうとする紬を見つめる。触れたいと思った。けれど、今はまだ触れない。その代わり、言葉なら伝えていい。蓮は、そう思い始めていた。
「……帰りましょうか。」
「はい。」
二人は並んで歩き始めた。紬はしばらく、何も言えなかった。自分が作ったクッキーを、蓮が選んだ。自分が作ったものだからと言う理由で。その言葉が、何度も胸の中で繰り返される。
先生は優しい人だから。きっと、親しくなった人には誰にでもそうなのだ。そう思おうとした。でも。
「紬さんだから言っています。」
その声が、どうしても脳裏から消えてくれなかった。
その夜。蓮は自宅で、買ったクッキーを食べた。
アイシングは少しだけ歪んでいる。けれど、その歪みさえ愛おしかった。
蓮は小さく笑った。自分はもう、かなり分かりやすくなっているのかもしれない。紬が作ったから選んだ。紬だから、誘った。紬だから、そばにいてほしいと思う。それを、もう隠すつもりはなかった。
ただ、紬から気持ちを返してもらおうとは思わない。紬が自分の気持ちを受け止められるまで、急かすつもりもない。彼女が自分で選べるようになるまで。
ククノチでは、紬が一人で片付けをしていた。千鶴は、少し離れた場所から紬を見ている。
「今日は楽しかったの?」
「うん。」
紬は答えた。
「先生の学校に行って、生徒さんたちとお菓子を作って。」
「そう。」
「それに……。」
紬は、今日のことを思い出した。蓮が選んだクッキー。自分がアイシングしたもの。そして、
――紬さんだから言っています。
「……先生って、変な人なの。」
千鶴が笑った。
「なんで?」
「優しいし、時々すごく……。」
紬は言葉を探す。
「……まっすぐ言葉を伝えてくるから。」
「ほう。」
「私が作ったから選ぶって、普通そんなにストレートに言うかな?」
千鶴は紬を見た。
「言う人は言うじゃろ。」
「そんなもの?」
「さあなぁ。」
千鶴は笑った。紬は、また頬が赤くなる。
「……でも。」
「でも?」
「嬉しかったの。」
その言葉に、千鶴は静かに笑った。紬はまだその意味をはっきりわかっていない。ただ、蓮が自分の作ったものを選んでくれたことが嬉しい。その小さな喜びを、紬は胸の中にしまった。




