挑戦の英単語アイシングクッキー(前編)
その話を持ちかけられたのは、ククノチの午後だった。昼を過ぎ、客足が少し落ち着いた頃。紬はカウンターの内側で、焼き上がったパンの粗熱を確認していた。
「紬さん。」
声を掛けられて振り返る。蓮が、いつもより少しだけ改まった顔で立っていた。
「はい?」
「少し、お願いがあるんですが。」
その言葉に、紬は自然と背筋を伸ばした。
「お願い……ですか?」
「はい。」
蓮は一度、言葉を選ぶように考えた。
「今度、生徒と手仕事市に参加することになりまして。」
「生徒さんたちがでですか?」
「そうなんです。普段は参加していないんですが、今年は地域との交流も兼ねて、生徒たちがいくつかの露店を出すことになりました。」
「へえ……。」
紬は興味深そうに聞いていた。常磐木町の手仕事市は、町の人たちが作ったものを持ち寄る小さな催しだった。
陶器や木工品、布小物。季節の植物や、手作りの菓子。決して大きなイベントではないけれど、毎年楽しみにしている人も多い。
「僕の担当している生徒たちが、焼き菓子を出したいと言いまして。」
「焼き菓子……。」
「はい。英語の授業とも少し関連づけて、英単語の形をしたクッキーを作ることになったんです。」
「英単語の形?」
「LOVEとか、HOPEとか、SMILEとか。」
蓮が指を折りながら挙げていく。
「なるほど。可愛いでしょうね。」
「ええ。ただ、生徒たちはお菓子作りの経験がほとんどなくて。」
そこで蓮は、紬を見た。
「それで、紬さんにお願いできないかと思ったんです。」
紬は目を瞬かせた。
「私に?」
「はい。」
「私が、生徒さんたちにお菓子作りを教えるんですか?」
「お願いできれば。」
思いがけない話だった。紬は、パンを作ることには慣れている。ククノチで千鶴と一緒に、何度も生地を触ってきた。けれど、人に教えたことはない。まして、学校の生徒たちに。
「でも……私、誰かにお菓子作りを教えたことはないです。」
「そうですよね。」
蓮は頷いた。
「急なお願いですし、無理にとは思っていません。」
「いえ、そういう意味ではなくて……。」
紬は言葉を探した。
「私でいいのかなって。」
その言葉を聞いて、蓮の表情が少し変わった。
「僕は、紬さんにお願いしたいと思ったんです。」
「……。」
「以前いただいたアップルパイが、とても美味しかったので。」
紬の頬が、ほんの少し赤くなる。
「あれは……たまたまです。」
「たまたまで、あんなものは作れないと思います。」
「そんな……。」
「僕は、あれを食べた時に思ったんです。」
蓮は穏やかに続けた。
「紬さんなら、パン以外のお菓子もきっと得意なんだろうなって。」
紬は、しばらく黙っていた。蓮はよく紬のことを褒めてくれるけれど、なかなか慣れない。それだけでもかなり嬉しいのに、以前自分が作ったものを覚えていてくれた。
「……先生が、私にお願いしたいと思ってくださったんですか?」
「はい。」
蓮は迷いなく答えた。
「紬さんにお願いしたいです。」
その言葉に、紬は視線を落とした。胸の奥が、少しだけ熱くなる。
「……私でよければ。」
そう言うと、蓮の顔が柔らかくなった。
「ありがとうございます。」
「でも、本当に私で大丈夫でしょうか。」
「大丈夫です。」
「まだ何もしていないのに。」
「紬さんは、僕のお墨付きですから。」
蓮はそう言ってから、少し笑った。
数日後。
紬は、蓮の勤める学校を訪れた。校門をくぐると、学校らしい景色が広がっている。生徒たちの声。廊下を走る足音。遠くから聞こえる部活動の掛け声。紬は少し緊張しながら、蓮の隣を歩いていた。
「緊張していますか?」
「……少し。」
「大丈夫ですよ。」
「先生は、いつもそう言いますね。」
「何がですか?」
「大丈夫って。」
蓮は紬を見た。
「大丈夫ではない時もありますか?」
「あります。」
「では、その時は言ってください。」
「え?」
「大丈夫ではない時は、すぐに助けを出します。」
紬は少し驚いた。蓮は前を向いたまま続ける。
「僕にできることは手伝えますから。」
あまりにも自然に言われたので、紬は返事をするのが遅れた。
「……はい。」
その時、廊下の向こうから生徒たちの声が聞こえた。
「先生!」
「来た!」
「今日、クッキー作るんだよな?」
数人の生徒が蓮のもとへ集まってくる。
「走らない。」
蓮がすぐに注意した。
「廊下は歩いてください。」
「はいはい。」
「返事は一回でいいです。」
少し厳しい。けれど、怒っているわけではない。生徒たちは蓮に注意されても、どこか楽しそうだった。
「先生、この人がパン屋さん?」
「そうです。」
蓮が紬を紹介する。
「坂道のパン屋さん、ククノチの小鳥遊紬さんです。今日は皆さんのお菓子作りを手伝ってくださいます。」
「よろしくお願いします。」
紬が頭を下げる。
「よろしくお願いします!」
生徒たちも一斉に頭を下げた。その勢いに、紬は少し驚いた。蓮が笑う。
「では、行きましょう。」
その声に、生徒たちは蓮の後をついていく。紬もその背中を見ながら歩いた。ククノチで見る蓮とは、少し違う。
生徒たちの前に立つ蓮は、いつもより少しだけ大きく見えた。教師として、生徒たちに頼られている。その姿を見ていると、胸の奥が不思議に温かくなる。
「藤代先生。」
隣を歩く蓮に、紬は声を掛けた。
「はい。」
「先生は生徒さんたちに、慕われていますね。」
蓮は少し困ったように笑った。
「そうでしょうか。」
「はい。」
「僕は、けっこう怒りますよ。」
「でも、みんな先生と話すのが楽しそうでした。」
「それは、クッキーを作りたいからでしょう。」
「そうですかね。」
紬が笑う。蓮は、その横顔を見た。学校という自分の場所に紬がいる。そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
自分が普段過ごしている場所を、紬に見てもらえる。それだけのことなのに。蓮は、少しだけ歩く速度を落とした。紬が隣にいる時間を、ほんの少しでも長くしたかった。
調理室には、すでに材料が並べられていた。小麦粉、バター、砂糖、卵。そして、英単語の形をしたクッキー型。
「うわ、これ難しくない?」
「LOVEってどうやって抜くんだよ。」
「先生、これ売れるの?」
「売れるものを作るために、今から頑張るんでしょう。」
蓮が答える。
「でも先生、お菓子作れるの?」
「僕は監督です。」
「作れないんじゃん。」
「野球の監督だって、実力と監督に向いているかどうかは別です。」
「先生、絶対作れないじゃん。」
調理室に笑い声が広がった。紬も思わず笑った。蓮がこちらを見る。
「紬さんまで笑うんですか。」
「すみません。」
「いえ。」
蓮は少し笑った。
「紬さんが笑っているなら、いいです。」
紬は一瞬、言葉を失った。
「……え?」
「いえ。」
蓮は何でもなかったように材料へ視線を戻した。
「では、始めましょうか。」
けれど、紬の頬はしばらく赤いままだった。




