↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
48/81

(蓮視点)帰る場所(前編)

 年末が近づいた土曜日。朝早く車を走らせると、見慣れた山並みが少しずつ近づいてくる。

 高校を卒業して家を出てからも、何度も帰ってきた道だ。それでも、この景色を見ると自然と肩の力が抜ける。


 寺の山門が見えた。車を降りると、冬の澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。


「ただいま。」


 玄関を開けると、台所から母が顔をのぞかせた。


「おかえり、蓮。ちょうどええ時に帰って来たなぁ。」


「父さんは?」


「もうすぐ本堂から戻ってくるけぇ。」


 ほどなくして、作務衣姿の父が廊下を歩いてきた。


「蓮。元気にしょーたか。」


「うん。父さんも元気そうじゃな。」


「ぼちぼちじゃ。」


 短いやり取り。けれど、それで十分だった。昔から父は、必要以上に言葉を重ねない。それでもちゃんと伝わる。そんな空気があった。


     


 昼食を囲み、温かいお茶を飲んでいると、父がふと思い出したように口を開いた。


「午後から時間あるじゃろ。じいちゃんの部屋、片付けるんを手伝うてくれんか。」


 蓮は湯呑みを置いて頷く。


「もちろん。」


 祖父が亡くなって一年。最低限の整理は済ませたものの、思い出の詰まった部屋だけは家族みんな手をつけられずにいた。

 襖を開けると、懐かしい畳の匂いが鼻をくすぐる。障子越しの柔らかな光。木の机。本棚いっぱいに並ぶ仏教書と外国の本。祖父の部屋の時間だけが、静かに止まっているようだった。


「懐かしいなぁ。」


 蓮は本棚へ歩み寄る。


「この辞書、よう勝手に触って怒られよった。」


 父が笑う。


「大事にしとったけぇな。『本は友達じゃ』が口癖じゃった。」


「そうじゃったな。」


 思わず笑みがこぼれる。祖父は住職だった。けれど、お経だけではなく、海外の文化や言葉にも強い興味を持っていた。

 幼い蓮へ英語の絵本を読んでくれたのも祖父だった。それがまさか、今や仕事になるとは。


『言葉はな、人と人をつなぐ橋になる。』


 その言葉は今でもよく覚えている。だから英語の教師になりたいと言った時も、祖父は真っ先に笑ってくれた。


『ええ道を選んだなぁ。寺を継ぐことだけが人生じゃねぇ。お前が決めた道なら、それが一番じゃ。』


 父も母も反対はしなかった。応援してくれた。自分の選んだ人生を、そのまま受け止めてくれた。

 そのことを思うと、一人の女性の顔が浮かぶ。紬さん。パン屋を継ぐために、大好きだった町へ来ることを選びながら、家族には反対された人。

 応援されて歩き出した自分と、反対されても歩き出した彼女。同じように家業とは違う道を選んだようで、背負ってきたものはまるで違う。


(僕は……。紬さんの苦労を分かったつもりになっとるだけなんじゃろうな。)


 あの夜、ぽつりと語ってくれた話を思い出す。あんな穏やかな笑顔の裏に、どれほど迷いがあったのだろう。そう考えると胸が少し痛んだ。


     


「蓮。」


 父が押し入れから小さな木箱を取り出した。


「これも見といてくれ。」


「おん。なんじゃろ。」


 蓮は蓋を開ける。中には古い写真、封筒、それに何冊かの手帳が丁寧に収められていた。


「じいちゃん、旅が好きじゃったけぇ。よう、あちこち歩いとったからなあ。」


「そうじゃな。」


 何気なく一冊の黒い手帳を開く。ページをめくった、その時だった。見慣れた文字が目に飛び込んできた。


『常磐木町』


 蓮の指が止まる。


「……父さん。」


「ん?」


「これ、見て。」


 父が隣へ来る。手帳をのぞき込み、小さく目を見開いた。そこには祖父の字で、こう記されていた。


『常磐木町。約束の場所。』


 さらにその下には。


『もう一度、あの人に会いたい。』


 部屋の空気が静まり返る。常磐木町。今、蓮がいる場所だ。


「父さん……。」


「じいちゃん、常磐木町へ行ったことがあったん?」


 父はしばらく考え込んでから、静かに口を開いた。


「……そういや。若い頃、不思議な町へ行った話を、一度だけ聞いたことがある。『また会いに行かにゃあいけん人がおる。』そう言うとった気がする。」


 蓮は手帳を見つめたまま動けなかった。祖父と常磐木町。すべてが一本の線になろうとしている。偶然ではない。

 そんな予感だけが、静かに胸の奥で形になり始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。