(蓮視点)帰る場所(前編)
年末が近づいた土曜日。朝早く車を走らせると、見慣れた山並みが少しずつ近づいてくる。
高校を卒業して家を出てからも、何度も帰ってきた道だ。それでも、この景色を見ると自然と肩の力が抜ける。
寺の山門が見えた。車を降りると、冬の澄んだ空気が胸いっぱいに広がる。
「ただいま。」
玄関を開けると、台所から母が顔をのぞかせた。
「おかえり、蓮。ちょうどええ時に帰って来たなぁ。」
「父さんは?」
「もうすぐ本堂から戻ってくるけぇ。」
ほどなくして、作務衣姿の父が廊下を歩いてきた。
「蓮。元気にしょーたか。」
「うん。父さんも元気そうじゃな。」
「ぼちぼちじゃ。」
短いやり取り。けれど、それで十分だった。昔から父は、必要以上に言葉を重ねない。それでもちゃんと伝わる。そんな空気があった。
昼食を囲み、温かいお茶を飲んでいると、父がふと思い出したように口を開いた。
「午後から時間あるじゃろ。じいちゃんの部屋、片付けるんを手伝うてくれんか。」
蓮は湯呑みを置いて頷く。
「もちろん。」
祖父が亡くなって一年。最低限の整理は済ませたものの、思い出の詰まった部屋だけは家族みんな手をつけられずにいた。
襖を開けると、懐かしい畳の匂いが鼻をくすぐる。障子越しの柔らかな光。木の机。本棚いっぱいに並ぶ仏教書と外国の本。祖父の部屋の時間だけが、静かに止まっているようだった。
「懐かしいなぁ。」
蓮は本棚へ歩み寄る。
「この辞書、よう勝手に触って怒られよった。」
父が笑う。
「大事にしとったけぇな。『本は友達じゃ』が口癖じゃった。」
「そうじゃったな。」
思わず笑みがこぼれる。祖父は住職だった。けれど、お経だけではなく、海外の文化や言葉にも強い興味を持っていた。
幼い蓮へ英語の絵本を読んでくれたのも祖父だった。それがまさか、今や仕事になるとは。
『言葉はな、人と人をつなぐ橋になる。』
その言葉は今でもよく覚えている。だから英語の教師になりたいと言った時も、祖父は真っ先に笑ってくれた。
『ええ道を選んだなぁ。寺を継ぐことだけが人生じゃねぇ。お前が決めた道なら、それが一番じゃ。』
父も母も反対はしなかった。応援してくれた。自分の選んだ人生を、そのまま受け止めてくれた。
そのことを思うと、一人の女性の顔が浮かぶ。紬さん。パン屋を継ぐために、大好きだった町へ来ることを選びながら、家族には反対された人。
応援されて歩き出した自分と、反対されても歩き出した彼女。同じように家業とは違う道を選んだようで、背負ってきたものはまるで違う。
(僕は……。紬さんの苦労を分かったつもりになっとるだけなんじゃろうな。)
あの夜、ぽつりと語ってくれた話を思い出す。あんな穏やかな笑顔の裏に、どれほど迷いがあったのだろう。そう考えると胸が少し痛んだ。
「蓮。」
父が押し入れから小さな木箱を取り出した。
「これも見といてくれ。」
「おん。なんじゃろ。」
蓮は蓋を開ける。中には古い写真、封筒、それに何冊かの手帳が丁寧に収められていた。
「じいちゃん、旅が好きじゃったけぇ。よう、あちこち歩いとったからなあ。」
「そうじゃな。」
何気なく一冊の黒い手帳を開く。ページをめくった、その時だった。見慣れた文字が目に飛び込んできた。
『常磐木町』
蓮の指が止まる。
「……父さん。」
「ん?」
「これ、見て。」
父が隣へ来る。手帳をのぞき込み、小さく目を見開いた。そこには祖父の字で、こう記されていた。
『常磐木町。約束の場所。』
さらにその下には。
『もう一度、あの人に会いたい。』
部屋の空気が静まり返る。常磐木町。今、蓮がいる場所だ。
「父さん……。」
「じいちゃん、常磐木町へ行ったことがあったん?」
父はしばらく考え込んでから、静かに口を開いた。
「……そういや。若い頃、不思議な町へ行った話を、一度だけ聞いたことがある。『また会いに行かにゃあいけん人がおる。』そう言うとった気がする。」
蓮は手帳を見つめたまま動けなかった。祖父と常磐木町。すべてが一本の線になろうとしている。偶然ではない。
そんな予感だけが、静かに胸の奥で形になり始めていた。




