(蓮視点)帰る場所(後編)
祖父の手帳を閉じても、その一文だけが頭から離れなかった。
『常磐木町。約束の場所。もう一度、あの人に会いたい。』
「あの人」とは誰なのか。誰との約束だったのか。祖父は結局、その約束を果たせたのだろうか。答えはどこにも書かれていない。
「父さん。」
蓮は手帳を見つめたまま尋ねた。
「じいちゃん、その話はそれしかしとらんかった?」
父は腕を組み、少しだけ首をひねる。
「うーん……。詳しいことは話さんかったな。ただ、『約束を守れんかった』言うて、時々寂しそうに笑うとった。」
約束を守れなかった。その言葉が胸に引っかかる。祖父らしくない、と蓮は思った。祖父は、人との約束を何より大切にする人だったからだ。
部屋の片付けを終える頃には、外は夕暮れに染まり始めていた。障子越しの光が赤く滲み、部屋を静かに包む。蓮は縁側に腰を下ろした。庭では冬の風が木々を揺らしている。
子どもの頃、この場所で祖父と将棋を指した。夏には蝉の声を聞きながら昼寝をした。何気ない思い出が、次々によみがえる。その中で、ふと祖父の言葉が浮かんだ。
『縁っちゅうもんは、不思議じゃ。自分で選ぶようで、向こうから来ることもある。』
あの頃は意味が分からなかった。でも今なら、少しだけ分かる気がした。常磐木町へ行ったこと。ククノチに出会ったこと。紬と出会ったこと。祖父が言う、何かの縁だったとしたら。
帰り道。助手席には、祖父の手帳が置かれている。蓮は常磐木町へ帰っていた。常磐木町の昔のことを知っている人と言えば。手帳のことを千鶴に聞いてみよう。そう思ったのもある。けれど、それだけではなかった。
(……会いたい。)
信号待ちで、ふっと笑ってしまう。誰に会いたいのか。考えるまでもなかった。パンを買う理由を探していた頃があった。新作が気になるから。店の雰囲気が好きだから。
そんな理由を、自分にいくつも並べていた。でも、本当は違った。店へ入るたび、一番最初に探していたのは。紬の柔らかな笑顔だった。
生徒からの進路相談に一緒に乗ってくれた日。母親とのことを静かに語ってくれた日。コートを掛けた帰り道。パンを手渡す時の、嬉しそうな表情。智也夫婦へ向けた、あの優しい言葉。
一つひとつの記憶が、胸の中でつながっていく。パンに惹かれたのではない。パンを通して、人を幸せにしようとする紬に惹かれていた。
その人柄に、笑顔に、強さに、優しさに。気づけば、自分は何度も救われていた。
初めてククノチでパンを食べた日のことを思い出す。張りつめていた心が、ふっとほどけた。あの温かさは、パンだけの力ではなかった。
カウンター越しに微笑む紬がいたからこそ、心が軽くなったのだ。その時から、もう始まっていたのかもしれない。自分でも気づかないほど、静かに。
常磐木町の入り口が見えてきた。夕焼けに染まる町は、どこか懐かしく見える。不思議だ。生まれ育った場所ではないのに、帰ってきたような気持ちになる。ククノチの前へ車を止める。
窓から漏れるオレンジ色の灯りが、寒い冬を優しく照らしていた。祖父も、この灯りを見たのだろうか。そんなことを思いながら扉に手をかける。ベルが澄んだ音を鳴らした。
カラン――。
「先生。」
振り向いた紬が、ぱっと笑顔になる。
「おかえりなさい。」
一瞬、蓮は息をのんだ。その一言が、驚くほど自然に胸へ落ちてくる。気づけば、自分も笑っていた。
「……ただいま。」
言葉にした瞬間、不思議と照れくさくなる。けれど紬は何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見た時、蓮は確信した。
(やっぱり。僕は、この人が好きなんじゃ。)
それは、突然始まったものではなく、少しずつ積み重ねた時間が、ようやく一つの答えになったのだった。
ククノチには今日も、焼きたてのパンの香りが満ちていた。




