シュトーレンと、待つ時間の幸せ(後編)
店の外へ出た智也は、真由の歩幅に合わせてゆっくりと歩いていく。冬の澄んだ空気の中、二人の背中は穏やかな陽だまりのようだった。紬は店先まで見送りに出る。
「身体、冷やさないでくださいね。」
「ありがとう。」
真由が笑う。
「また来るね。」
「はい。赤ちゃんに会えるの、楽しみにしています。」
智也は照れくさそうに頭をかいた。
「生まれたら、まず報告に来るわ。」
「約束ですよ。」
「もちろん。」
その時、真由が足元を気にして立ち止まる。智也はすぐに手を添えた。
「ゆっくりで良いよ。」
「ありがとう。」
それは特別なことではない。当たり前のように手を差し伸べ、当たり前のように隣を歩く。そんな何気ない姿だった。紬は目を細めて笑う。
「智也くん。」
「うん?」
「本当に、お父さんになるんだね。」
智也はお腹にそっと視線を落とした。
「まだ実感は半分くらいだどな。でも、不思議だ。一人だった時は、自分のことだけ考えとけばよかった。今は結婚して、家に帰ると真由がいて。今度は子どもができた。」
少し照れたように笑って続ける。
「守りたい相手が増えるたびに、自分も少しずつ変わってる気がする。」
その言葉を残し、智也は真由と並んで歩き出した。二人の姿が角を曲がって見えなくなるまで、紬は静かに手を振っていた。
「いいご夫婦ですね。」
蓮がぽつりと言う。紬は嬉しそうに頷いた。
「そうなんです。智也くん、小さい頃から優しい人で。私が失敗すると、よく助けてくれてました。」
懐かしそうに笑う。
「木登りして降りられなくなった時も。川で転んで泣いた時も。いつも、『大丈夫か』って。」
蓮はその話を静かに聞いていた。紬の子どもの頃。祖父母と過ごした日々。笑ったことも、泣いたことも。その時間を智也は知っている。自分の知らない紬が、そこにはいたのだろう。
智也はもう、守るべき家族がいる。そして紬も、その幸せを心から喜んでいる。
2人の関係は、とても温かく、美しかった。
帰り支度を整えた蓮は、店の扉へ向かう。ベルに手をかけた時だった。
「先生。」
紬が呼び止める。
「はい?」
「シュトーレン。」
包みを差し出す。
「今日のお礼です。」
「お礼?」
「今日は一緒にお祝いしてもらえた気がして。」
蓮は少し驚き、それから穏やかに笑った。
「ありがとうございます。」
包みを受け取ると、ほんのりスパイスの香りがした。
「先生も、少しずつ食べてください。」
「毎日一切れ。」
「そうすると、不思議と待つ時間も好きになりますよ。」
「僕は何を待つんでしょう?」
蓮が笑うと、紬も首をかしげて笑う。
「何でしょう。」
「いいこと、ですかね。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
ククノチを出る。
冬の空には、一番星が瞬いていた。蓮は歩きながら、智也の言葉を思い返す。守りたい相手が増えるたびに、自分も少しずつ変わる。その一言が、胸の奥に静かに残っていた。
寺で育った自分は、「執着しすぎないこと」を教えられてきた。人は思いどおりにはならない。だからこそ、その人の幸せを願う。それが大切なのだと。から今日も、自分知らない紬のことを知る智也を見て羨ましいとは思わなかった。
ただ、思った。智也は幼い頃から、紬のすぐ近くで笑い、困った時には手を差し伸べてきたのだろう。
そして今、その役目は自然と変わっていく。守る人が、妻へ、子どもへと広がっていく。人生が前へ進んでいる。だったら。蓮は足を止め、夜空を見上げた。
(これから先――。)
紬が誰かのために笑いすぎてしまう日があったら。一人で抱え込んでしまう日があったら。あの日、自分が救われたように。今度は、自分が隣で支えられる人になりたい。助けるためではない。守るためでもない。ただ、一番近くで見守れる人になりたい。その願いが胸いっぱいに広がった瞬間、蓮は静かに笑った。
(そうか。僕は、紬さんのことが好きなんだ。)
冷たい冬の風が頬をなでる。紙袋の中では、シュトーレンがほんのり甘く香っていた。少しずつ味わいながら、大切な日を待つパン。
蓮の心にもまた、小さな灯りがともっていた。




