シュトーレンと、待つ時間の幸せ(前編)
十二月に入ると、ククノチの店先には、いつもとは少し違う甘い香りが漂い始める。シナモン、カルダモン、ナツメグ。焼き上がる生地に、洋酒に漬け込んだドライフルーツの香りが重なる。冬だけの特別なパン――シュトーレン。
「今年もこの季節になったねぇ。」
千鶴が焼き上がったシュトーレンを眺めながら微笑む。
「はい。」
粉砂糖をふんわりとまとった一本を、紬は丁寧に包装していく。
「昔、おじいちゃんが言ってました。」
紬は懐かしそうに笑った。
「『シュトーレンは、待つ時間までごちそうなんだ』って。」
千鶴はゆっくり頷く。
「一気に食べるパンじゃないからね。少しずつ切って、毎日味が変わるのを楽しみながら、大切な日を待つ。不思議なパンだよねぇ。」
紬は包み終えたシュトーレンを見つめる。
「だから好きなんです。待つ時間も幸せって、教えてくれる気がして。」
昼過ぎ、ベルが軽やかに鳴った。
「こんにちは。」
久しぶりに聞く声に紬が顔を上げる。
「あ、智也くん!」
店に入ってきたのは、幼なじみの智也だった。その隣には妻の真由。真由のお腹は、ふっくらと丸みを帯びている。
「こんにちは、紬ちゃん。」
「真由さん、お久しぶりです。」
紬は嬉しそうに二人を迎えた。紬は智也に話しかける。
「予定日、もうすぐなんだって?」
「うん。」
真由はお腹を優しく撫でながら笑う。
「あと三週間くらいかな。」
「楽しみ半分、不安半分。」
「初めてだもんね。」
紬はそっと頷いた。
「おめでとうございます。」
「ありがとうございます。」
そんな話をしていると、学校帰りの蓮が店へ入ってくる。
「こんにちは。」
「あ、藤代先生。」
紬がいつもの笑顔を向ける。
「ちょうどよかった。こちら、幼なじみの智也くんです。智也くん、こちら最近よくお店に来てくれる常連さんの、藤代先生。高校の英語の先生なの。」
智也は気さくに頭を下げた。
「初めまして。紬とは小さい頃からの付き合いなんです。」
「藤代です。高校で教師をしています。こちらのパンの、大ファンでして。」
二人は穏やかに挨拶を交わす。どちらも人懐こい性格だからだろうか。初対面とは思えないほど自然な空気が流れた。
◇
「そうだ。」
紬は棚から一本のシュトーレンを取り出した。
「今日はこれにしませんか?」
智也が笑う。
「何回か買っとるけど。」
「今年は特別です。」
紬は優しく続けた。
「シュトーレンって、毎日少しずつ食べながら、クリスマスを待つパンなんです。」
「知っとるよ。」
「うん。でも今年は。」
紬は真由のお腹へ視線を向ける。
「赤ちゃんに会える日も、一緒に待てます。」
二人は顔を見合わせた。真由が照れたように笑う。
「考えたことなかった。」
「毎日一切れ食べるたびに、『もう少しだね』って話せますね。」
「そうですね。」
智也も穏やかに笑った。
「それ、良いな。」
少し照れくさそうに頭をかく。
「最近な、嬉しいんじゃけど、不安の方が大きくて。ちゃんと父親になれるんかな、とか。」
真由も小さく頷く。
「私も同じよ。ちゃんと母親になれるかなって毎日考えてる。」
店内が静かになる。紬は少しだけ考えてから、ゆっくり口を開いた。
「赤ちゃんも。」
二人は顔を上げる。
「きっと、お父さんとお母さんに会える日を楽しみに待ってます。」
真由は思わず目を潤ませた。
「……そうですね。」
智也も、お腹へそっと手を添える。その表情は、少しだけ安心したように見えた。
会計を済ませると、智也はシュトーレンを大事そうに抱えた。
「毎日一切れ。忘れんように食べないとな。」
「食べ終わる頃には、赤ちゃんに会えてるかもしれませんね。」
紬がそう言うと、
「その時は、また報告に来る。」
智也は笑った。——と、店を出ようとした真由が、小さく体勢を崩す。
「あっ……。」
その瞬間。智也は何も言わず、自然に腕を添えた。
「大丈夫?」
「うん、ごめんね。」
「謝らないで。」
荷物を持ち替え、歩幅を合わせる。その一つ一つの仕草に、派手さはない。けれど、生まれてくる子どもと妻を大切に思う気持ちが、静かに伝わってきた。紬はその背中を見送りながら、ふっと笑う。
「智也くん。もう、すっかりお父さんの顔だね。」
智也は照れ笑いを浮かべた。
「まだ生まれとらんのに。毎日心配ばっかりじゃ。」
そう言いながらも、その表情はどこか幸せそうだった。その姿を見つめる蓮の胸にも、静かに何かが芽生え始めていた。




