オリーブチャバタと伝えたい言葉(後編)
「紬ちゃん。」
木梨はゆっくりと、店へ入ってきた。どうやらパンを買いに来たわけではなさそうだ。
「おかえりなさい。」
紬が笑顔で迎える。
「聞いてくれるか。」
その表情は、朝よりずっと柔らかかった。
「帰ってから妻に、『今日は一緒に昼飯でも作らんか』って言ってみたんじゃ。」
千鶴がレジの向こうで微笑む。
「ほう。」
「最初は驚いとったけどな。」
木梨は少し照れくさそうに笑った。
「冷蔵庫にあったハムとチーズ、それからレタスを挟んで食べたんよ。はじめてじゃったなぁ。二人で台所に立ったの。」
紬は目を細める。
「素敵ですね。」
「定年してから、お互い家にはおるのに、あんまり話さんようになっとった。でも、パンのおかげで話すきっかけができた。」
紬は首を横に振った。
「きっかけを作ったのは、木梨さんですよ。」
「私はパンをお渡ししただけです。」
「一緒に作ろうって言えたのは、木梨さん自身です。」
木梨は少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「そうかもしれんな。」
照れたように笑うその姿を見て、蓮も自然と笑みがこぼれる。紬はいつも、誰かに答えを与えるわけではない。その人が自分で一歩を踏み出せるよう、そっと寄り添うだけだった。その優しさが、店いっぱいに広がっているように感じた。
木梨を見送ったあと、店内には穏やかな静けさが戻る。窓の外では、冬の日がゆっくりと暮れ始めていた。
「先生、コーヒー淹れますね。」
「ありがとうございます。」
イートインの窓際の席。最近ではすっかり定位置になっている。コーヒーと、焼きたてのオリーブチャバタ。ほかに客もいないので、紬も向かいに座った。
「先生。今日、学校だったんですよね。」
「はい。」
「今日はどんな授業をされたんですか?」
紬は以前、蓮が授業をする姿を見かけたときのことを思い浮かべる。蓮は少し考えてから答えた。
「今日は、『言葉』の話をしました。」
「言葉?」
「英語は試験のために学ぶだけではなく、人と人をつなぐものとして学んでほしいなと。」
紬は興味深そうに耳を傾ける。
「先生らしいですね。」
蓮は少し照れ笑いを浮かべた。
「実は、高校生の頃に出会った英語の先生の影響なんです。」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「寺の息子だから、周りは当然、寺を継ぐと思っていました。僕自身も、そう思っていた時期があります。」
紬は黙って聞いている。
「でも、その先生が教えてくれたんです。英語は、世界中の人が同じ母国語じゃなくても、お互いを理解しようとすることができる言葉なんだって。」
蓮は窓の外へ目を向けた。
「世界にはたくさんの言葉があります。でも、英語が第二言語という人は結構いますから。多くの人が理解できる言葉があって、様々な人とつながれる。その可能性に、すごく惹かれました。」
紬は小さく頷く。
「だから先生に?」
「はい。」
「もちろん英語が好きだったのもあります。でも、それ以上に、人と人がつながる瞬間を見るのが好きなんです。」
その言葉を聞いた紬は、ふとこれまでククノチに来店して、晴れやかな顔になって帰っていった人々を思い出した。
「……なんだか。私たち、少し似ていますね。」
蓮は笑う。
「僕も今、同じことを思いました。」
「え?」
「紬さんも、パンを売っているだけじゃありません。パンを通して、人と人をつないでいる。」
紬は少し驚いたように目を瞬かせた。そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
「私は、そんな立派なこと……。」
「立派ですよ。」
蓮は静かに言う。
「今日の木梨さんを見て、そう思いました。」
紬は照れたように視線を落とし、小さく笑った。
「ありがとうございます。」
店を出る前。蓮は紙袋に入ったオリーブチャバタを見つめる。
「先生。」
「はい?」
「オリーブチャバタって、不思議なパンなんです。」
「どうしてですか?」
「派手じゃないでしょう?でも、毎日でも食べたくなるんです。」
蓮はパンを見て、それから紬を見る。思わず口をついて出た。
「……紬さんに似ていますね。」
一瞬、店の空気が止まる。
「え……?」
紬が目を丸くする。蓮も、自分で言ってから「あ」と思った。
(何を言ってるんだ、僕は。)
慌てて付け加える。
「その……派手じゃないって意味じゃなくて。飽きないというか。」一緒にいると安心するというか……。」
言えば言うほど、墓穴を掘っている。顔が熱くなる。紬はその言葉を聞きながら、頬がじんわりと赤くなるのを感じた。こんなふうに言われたことは、今まで一度もない。
「……そんなこと。」
小さく笑って、
「初めて言われました。」
そう答えるのが精一杯だった。その様子を見ていた千鶴は、湯飲みを片付けながら、くすりと笑う。
「先生。褒め上手になったねぇ。」
「ち、違います。」
蓮は慌てる。
「僕はただ、本当に思ったことを……。」
そこまで言って、また照れてしまう。紬は俯いたまま、赤くなった頬を隠すように髪を耳へ掛けた。そんな二人を見て、千鶴は何も言わず微笑む。まだ恋人ではない。けれど、二人の間に流れる空気は、少しずつ変わり始めていた。
ククノチの灯りは今日も変わらず町を照らしている。その温かな灯りの中で、二人の想いもまた、ゆっくりと形になろうとしていた。




