オリーブチャバタと伝えたい言葉(前編)
冬の朝は、まだ町が目を覚ましきる前から始まる。ククノチの厨房には、小麦粉の甘い香りと、発酵した生地のやさしい匂いが満ちていた。紬は大きなボウルを抱え、つややかにまとまった生地を作業台へそっと移す。
「今日はチャバタかい。」
千鶴がエプロンで手を拭きながら覗き込む。
「はい。久しぶりに焼こうかなと思って。」
紬は刻んだ黒オリーブの塩漬けを生地へ加え、指先でやさしく折り込んでいく。チャバタは、見た目こそ素朴だが、生地の扱いは繊細だ。こねすぎてもいけない。急ぎすぎてもいけない。生地の声を聞くように、休ませながらゆっくり育てる。
「待つのも仕事じゃけぇね。」
千鶴が笑う。紬も頷いた。
「パンも、人の気持ちも似てるの。急がせるとうまくいかない。」
「そうじゃねぇ。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
開店して間もなく、一人の男性が店へ入ってきた。
「おはようございます。」
「おはよう、紬ちゃん。」
町内会でよく見かける木梨だった。六十五歳。春に定年退職し、最近は毎日のように散歩をしている。以前は仕事帰りに食パンを買うことが多かったが、退職してからは散歩がてら立ち寄って店内で話をして帰るようになっていた。
「今日は珍しいパンがありますよ。」
紬は焼きたてのオリーブチャバタを差し出した。こんがり色づいた表面に、小さくのぞく黒オリーブ。
切れば、中は大きな気泡がいくつも開いている。
「これは?」
「イタリアの食事パンです。」
「噛むほど味が出ますよ。」
木梨は興味深そうに見つめた。
「食べ方が分からんな。」
「そのままでも美味しいですけど、スープやサラダにも合います。」
「奥さまと半分こされても。」
その言葉に、木梨は照れくさそうに笑う。
「最近なぁ……。家におる時間が増えて、妻にはうっとうしがられててなあ。それに今さら、何を話したらええんか分からん。」
紬は静かに耳を傾ける。答えを急がない。少し考えてから、ふんわり笑った。
「じゃあ今日は、一緒に食事する理由を作ってみませんか。」
「理由?」
「チャバタでサンドイッチを作るんです。イタリアでは結構定番なんですよ。具は何でも。きっと、サンドイッチを作るその時間が楽しいですよ。」
木梨は少し驚いた顔をしたあと、
「……それ、ええな。」
と笑った。
「じゃあ二つもらおう。」
「ありがとうございます。」
パンを袋へ入れながら、紬も嬉しそうに微笑んだ。
昼前。常盤木高校では英語の授業が始まっていた。黒板には大きく一文が書かれている。
Words connect people.
「意味、分かる人。」
蓮が教室を見回す。何人かの生徒が手を挙げた。
「『言葉は人と人をつなぐ』ですか?」
「その通り。」
蓮は笑って頷く。
「皆さんにとって英語は試験のためだけに勉強するものですか?言葉は、自分の気持ちを伝えたり、相手を知ったりするためにあります。」
生徒たちは静かに耳を傾ける。
「英語の良いところは、多くの人の第二言語であること。世界の四人に一人は簡単な英語を話すことができます。ストレートな表現で気持ちを通わせることができる。短い言葉でも、たった一言で相手の一日が少し嬉しくなることがあります。」
教室が穏やかな空気に包まれる。ふと蓮の頭に浮かんだのは、ククノチだった。パンを受け取った人たちが、少しだけ表情を和らげる光景。紬が相手の話を最後まで聞く姿。
(……似ている。)
言葉も、パンも、誰かを無理に変えたいんじゃあない。ほんの少し、心を軽くするきっかけを作りたい。
夕方。仕事帰りの蓮がククノチの扉を開ける。カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」
顔を上げた紬が、ふわりと笑った。
「藤代先生。」
「こんばんは。」
その笑顔を見ると、不思議と肩の力が抜ける。最近はもう、パンを買うことだけが目的ではない。そんな自分に気づき始めていた。
「今日はオリーブチャバタが焼けたんですよ。」
「そうなんですか。」
「今日の先生が、お好きそうだなと思って。」
何気ない一言だった。けれど蓮は、少しだけ嬉しくなる。
「僕が?」
「はい。なんとなくです。」
紬は照れくさそうに笑う。その「なんとなく」が、ほとんど正解に近いことを知っている。蓮は小さく笑って言う。
「じゃあ、一ついただきます。」
その時、店の扉がもう一度開いた。
「紬ちゃん!」
振り返ると、木梨が、晴れやかな笑顔で立っていた。




