昔馴染みのベーコンエピ(後編)
夕方。
冬の日は短く、ククノチの窓から差し込む光も、いつの間にか柔らかな橙色に変わっていた。閉店前の店内には、静かな時間が流れている。
蓮はいつもの席で、ゆっくりとコーヒーを飲んでいた。向かいでは、紬が明日の仕込みの準備をしている。
小麦粉の量を確認する。道具を洗う。一つひとつの作業を丁寧にする姿。それは、蓮がいつも見ている紬だった。
たが今日、初めて知った紬の姿もあった。智也と話していた時の笑顔。昔の思い出を話す時の、少し子どもに戻ったような表情。
あれは、自分の知らない紬だった。
「先生」
紬の声で、蓮は顔を上げた。
「はい」
「今日は少し静かですね」
蓮は少し驚いた。
「そう見えますか?」
「なんとなくです」
紬は笑う。
「先生、考え事をしている時、少しだけ遠くを見るので」
蓮は思わず笑った。
「そんな癖があるんですね」
「たぶんですけど」
「紬さんには、そういうところをよく見られていますね」
そう言うと、紬は少し困ったように笑った。
「すみません」
「え?」
「人のことを見すぎてしまうんです」
一瞬。蓮は表情を変えた。以前なら、その言葉の奥にあるものに気づかなかったかもしれない。
でも今は知っている。紬が、自分のその部分を少し怖がっていること。
「謝ることではないと思います」
蓮は静かに言った。
「僕は、紬さんのそういうところに助けられてきましたから」
紬は少し目を伏せた。
「……パンのことですか?」
「それもあります」
蓮は笑う。
「でも、パンが美味しいだけじゃありません。紬さんは、相手が何を必要としているかを考えている。それは、簡単なことではないと思います」
紬は何か言おうとして、やめた。そして小さく笑った。
「先生は優しいですね」
その言葉に、蓮の胸が少し揺れる。優しい。自分は物腰柔らかい方だし、人の話を聞くのも好きだから、そう言われることは、今まで何度もあった。でも、紬に言われると、なぜか特別に感じた。
「智也くんは、昔からこの町に住んでいて。」
紬がふと話し始めた。
「私が夏休みにククノチへ来ていた頃も、よく遊んでくれました。パン作りを手伝っていた時も、味見役をしてくれて」
紬は懐かしそうに笑う。
「子どもの頃は、食いしん坊だったので、失敗したパンでも、美味しいって言ってくれました。ベーコンエピは、私が食いしん坊の彼がパンでお腹いっぱいになれるようにと練習を頑張ったパンだったんです。」
蓮はその話を聞きながら、静かに頷いた。その頃の紬を想像する。
「今日彼が来ることは何となくわかっていたんですね?」
「確信はありませんでした。」
まだ小さな手で生地をこねて。上手くいかなくても笑って。祖父母の店を大切にしていた少女。その隣にいた人。自分は知らない。知らないけれど、その時のことを知りたいと思った。
「素敵な思い出ですね。」
蓮が言うと、紬は頷いた。
「はい。私にとって、常磐木町は……ずっと帰ってくる場所だったので。」
その言葉が、蓮の胸に残った。帰ってくる場所。
自分にもある。岡山の寺、家族。長い時間を過ごした場所。だから分かる。人にとって、帰れる場所があることがどれほど大切なのか。
そして。今の自分にとって。この町も。この店も。少しずつ特別な場所になっている。
閉店後。
「ありがとうございました」
紬に見送られ、蓮は坂道を下った。いつもの帰り道。いつもの景色。なのに、今日は考えることが多かった。智也のこと。紬の昔のこと。そして、自分自身のこと。
智也に対して嫌な気持ちがあったわけではない。
むしろ、紬が大切にしてきた人なのだと思う。だからこそ。余計に不思議だった。なぜ、自分は少し寂しかったのか。
「……」
蓮は足を止めた。坂の上を見る。もう店の明かりは消えかけている。そこに紬がいる。そう思うだけで、なぜか安心する。
以前は違った。この町に来たばかりの頃。ありふれた、美味しいのでつい立ち寄ってしまうパン屋だった。でも今は。
ククノチへ向かう道を歩くことが楽しみになっている。紬が笑うと、自然とこちらも笑ってしまう。
そして今日。自分が知らない紬の時間を知っている人を見て少しだけ、羨ましいと思った。
その気持ちに気づいた瞬間。蓮は小さく息を吐いた。
「……ワシは、何を考えているんじゃ。」
苦笑する。教師として。一人の人間として。相手の大切な過去を尊重するべきだ。そんなことは分かっている。それでも、願ってしまう。これから先の紬の時間を自分も隣で見ていたい、と。
夜。
蓮は自宅で、祖父の残した絵葉書を手に取った。シダ植物が生い茂る庭。最近、この景色が妙に気になる。自分の祖父が残した約束。
まだ何も分からない。けれど。この町へ来たことは、偶然ではないような気がした。蓮は絵葉書をそっとしまう。
そして、初めて自分の中に生まれた感情を認める。紬を、もっと知りたい。過去も、今も、これからも。その気持ちが何なのかまだ名前はつけられなかった。けれど、確かに、今までとは違う想いだった。




