昔馴染のベーコンエピ(前編)
冬の気配が、少しずつ常磐木町に降りてきていた。朝の空気は冷たく、坂道を吹き抜ける風には、秋の名残と冬の匂いが混ざっている。
ククノチの店内では、紬が焼き上がったパンを並べていた。
今日のおすすめは、ベーコンエピ。
小麦を感じるしっかりとした生地の中に、カリカリのベーコン。
歯応えがあって、食べ応えがある。
「ベーグルエピは、お腹いっぱい食べたい人に人気だね。」
千鶴が棚を眺めながら言う。
「昔から変わらないもんね」
紬は笑った。
「私も小さい頃よく食べていたよね?」
「知ってるよ」
千鶴が笑う。
「紬ちゃん、自分で作った最初のベーコンエビもどきも、嬉しそうに食べてたもの」
「もどきって言わないでよ。」
「だって、ベーコンが全部片寄ってたじゃない」
そんな会話をしていると、店のベルが鳴った。
カラン。
「こんにちは」
聞き慣れた声。
「藤代先生」
紬の表情が自然に明るくなる。その変化に、蓮自身は気づいていなかった。
「今日は寒いですね」
「本当ですね」
蓮はいつもの席に座る。最近では、それが当たり前になっていた。学校帰りに寄る日もある。休日に立ち寄ることもある。パンを買うため。
……そう思っていた。
「今日は何にしますか?」
紬が尋ねる。蓮は少し考えた。
「ベーコンエピをお願いします。おすすめですよね?」
「はい」
紬は笑う。
「今日は、きっと先生に合うと思います」
その言葉に、蓮は少しだけ目を細めた。紬はいつもそうだった。何気ない言葉の中に、相手を思う気持ちがある。
だからなのか。この店に来ると、肩の力が抜ける。
昼前。ククノチの前に、一台の軽トラックが止まった。
「紬ー」
男性の声が響く。聞き慣れない声に、蓮は顔を上げた。紬が店の外へ出ていく。
「あ……! 智也くん。久しぶり。」
その瞬間。蓮は少し驚いた。紬の顔が、いつもと違ったからだ。もちろん笑っている。でも、ククノチで見せる優しい笑顔とは少し違う。
もっと自然で、もっと素に近いような自然な笑顔。
「久しぶり」
男性はそう言って笑った。
「棚の修理に使う部品、持ってきた」
「ありがとう。助かる」
「紬、相変わらずだな」
「何が?」
「昔から、パンが似合う。」
紬が少し困ったように笑う。その会話を聞きながら、蓮は胸の奥に小さな違和感を覚えた。
この人は。紬さんの昔を知っている。自分が知らない時間を。
「先生」
千鶴が小さな声で話しかける。
「子どもの頃からこの町にいる人です。紬ちゃんとは、子どもの頃から一緒だったんですよ」
蓮は頷いた。
「そうなんですね。」
それだけ答える。けれど、視線は自然と外へ向いていた。紬が笑っている。楽しそうに話している。その姿を見るのは嬉しいはずなのに。なぜか少しだけ、胸が沈んだ。ハッキリとした理由は分からない。ただ、自分はあの笑顔を見たことがなかった。
「彼は智也くん。子ども時代からの知り合いなんです。最近結婚したので、店にはなかなか来れなくて。はじめましでですよね?」
紬が店に戻ってきて言った。
「ええ、初めて見かけるお客さんでした。」
「奥さんも優しくて素敵な人なんですよ。今度、一緒に来てくれるそうです。」
蓮は一瞬だけ黙った。
「それは、嬉しいことですね。」
自分でも分からないほど自然に、安堵していた。そんな自分に蓮は違和感を覚えた。なぜ安心したのだろう? 彼はただ、紬の昔からの知り合いだ。大切な人なのだろう。しかし、さっきまで感じていた寂しさは、何だったのか。
「先生?」
紬が首を傾げる。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい」
蓮は笑った。
「少し考え事をしていただけです」
紬は少し心配そうに見る。その視線に、また胸が温かくなる。そして蓮は思った。自分は、いつからこんなにも、この人の一言に心を動かされるようになったのだろう。




