冬支度ゆずクリームパン(後編)
午後三時を過ぎると、神社の境内に冷たい風が吹き始めた。参道の木々がさわさわと揺れ、色づいた葉がゆっくりと石畳へ舞い降りる。
「先生、お疲れさまです。」
生徒たちが片付けを終え、蓮へ頭を下げる。
「みんなもありがとう。気をつけて帰ってね。」
生徒たちを見送り、蓮は自然とククノチの露店へ目を向けた。紬は売り切れた棚を拭き、空になった籠を運んでいる。
「藤代先生。」
紬が気づいて笑った。祖母が常盤木高校もボランティアで手伝いに来ると言っていたのを思い出す。
「今日はお疲れさまでした。」
「紬さんこそ。」
「ゆずクリームパン、全部売れましたね。」
「はい。」
彼女の笑顔を見ているだけで、不思議と胸が温かくなる。
――最近、こんなことが増えた。
紬が笑う。それだけで嬉しい。理由なんて考えたことはなかった。
◇
「紬ちゃん。」
八百屋のおばあさんが通りかかる。
「片付け、大丈夫?」
「はい。あと少しです。」
「先生がいるから安心だねぇ。」
八百屋のおばあさんは、蓮と紬を交互に眺める。最近一緒にいることが増えたので、セットと思われているらしい。
「先生が来るようになってから、紬ちゃん一人で重いもの持たなくなったもの。」
紬は一瞬驚くが、すぐに笑顔になる。
「確かに、最近は藤代先生に手伝ってもらってばかりですね。」
「使える男手はぁ、使わなくちゃね。」
おばあさんは得意げにウィンクして歩いていく。その言葉に、蓮は少し考え込んだ。自分では意識していなかった。彼女の助けになりたいとは常日頃思っているが、気づけば自然に荷物を持っていたらしい。
脚立を運び、箱を運び、高い場所の飾りを取る。それが当たり前になっていた。
「先生。」
紬が少し困ったように笑う。
「ありがとうございます。今日は何度も助けてもらいました。」
「そんな、大したことじゃありません。」
「でも嬉しかったです。」
その一言に、蓮の心臓が少しだけ速く打つ。嬉しかった。その言葉だけで十分だった。
最後の箱を運び終えた頃には、日が傾き始めていた。山から吹き下ろす風は、昼間よりもさらに冷たい。紬は思わず肩をすくめる。その小さな仕草を、蓮は見逃さなかった。
「寒くないですか。」
「大丈夫です。」
いつもの答え。蓮は少しだけ笑った。
「紬さん。」
「はい?」
「大丈夫が口癖になっていますね。」
紬はきょとんとした表情になる。
「……え?」
「紬さんは、困っていても『大丈夫です』って言いますから。」
その言葉に、紬は驚く。——よく、見てくれている。
「心配をかけたくなくて。」
その一言に、蓮の胸が静かに締めつけられる。心配をかけたくない。だから、自分のことは後回し。きっと昔から、そうやって生きてきたのだろう。
蓮は何も言わず、自分のコートを脱いだ。
「先生?」
「これ、着てください。」
紬の肩へそっと掛ける。そのために一歩近づく。ふわりと、小麦とゆずが混ざったような優しい香りがした。肩に触れた手が、一瞬だけ止まる。……細い。思っていた以上だった。毎朝早く起きて、重い粉袋を運び、何時間も立ち続ける人なのに。その肩は驚くほど華奢だった。
(女性なんだな。)
毎日、あんなに頑張っているんだ。そう思った瞬間だった。守りたい。その言葉が、胸の奥に静かに浮かんだ。蓮は自分でその感情に戸惑い、そっと手を離す。必死に顔に出さないようにするが、耳には熱が集まってしまう。
「先生、風邪をひきますよ。」
「僕は平気です。」
「でも……。」
「紬さんの方が寒そうです。」
紬は少し困った顔でコートを見つめ、それから小さく笑った。
「先生って、本当に紳士ですね。」
何気ない一言だった。けれど蓮は、不意に照れてしまう。
「……そんなことありません。」
視線を逸らしながら答える。その様子を見ていた千鶴が、荷物を畳みながらふっと笑った。どこか安心したような穏やかな笑みだった。
帰り道。
二人は夕暮れの坂を並んで歩く。
紬は蓮のコートを羽織ったまま、少し嬉しそうに袖へ手を入れていた。
「温かいですね。」
「それなら良かったです。」
「……先生。」
「はい?」
「今日も、町の皆さんとたくさん話してくださってありがとうございました。」
蓮は少し首を傾げる。
「僕は何もしていません。」
「いいえ。」
紬はゆっくり首を振る。
「先生、この町に自然に馴染んでくださっているでしょう?」
「皆さん、それが嬉しいんだと思います。」
蓮は思わず笑った。
「それは……。」
「紬さんのおかげですよ。」
その言葉に、紬は驚いたように立ち止まる。
「私ですか?」
「この町を好きになったのは。」
蓮は少し照れくさそうに笑う。
「紬さんと出会えたからです。」
言った瞬間、自分でも少し踏み込みすぎた気がした。
紬も一瞬だけ目を見開く。
それから、頬をほんのり赤く染めて笑った。
「……ありがとうございます。」
夕焼けが二人を優しく包む。坂の上では、ククノチの小さな灯りがともり始めていた。その灯りが、これからも二人を少しずつ近づけていくことを、まだ知らなかった。




