冬支度ゆずクリームパン(前編)
吐く息が、朝の空気に白く溶けていく。ククノチの厨房では、焼きたてのパンの香りに混じって、爽やかなゆずの香りがふわりと漂っていた。
「今年もいい香りだねぇ。」
オーブンを覗き込んだ千鶴が、満足そうに頷く。
「今年は香りが良かったから、ゆずピールのペーストをを少し多めに入れたの。。」
紬は焼き上がったパンを網へ並べながら微笑んだ。ふんわりとした生地の中には、自家製のゆずクリーム。寒い日に食べると、心まで少し温かくなる。毎年、この時期だけ焼くククノチの冬の定番だった。
「今日は全部売れそうだね。」
「冬支度市だもんね。」
常磐木神社の境内で開かれる朝市。商店街や町内会が協力して毎週開催される小さな催しの、本格的な冬を迎える前に開催される特別な朝市だ。ククノチも、毎年露店を出店している。
「高校の生徒さんたちも手伝うんですよね。」
「藤代先生も来るんじゃろ。」
千鶴が何気なく言う。紬はパンを袋へ入れながら、小さく笑った。
「そうみたいです。」
それだけなのに。胸の奥が少しだけ温かくなる。最近、ククノチ以外の場所でに蓮と顔を合わせることが増えた。紅葉を見に行ったこと、町歩きをしたこと、行事へ誘ったこと。
思い返すと自然に笑みがこぼれる。友人として、この町を好きになってくれた人と過ごす時間が、心地いい。
昼前。神社の境内は、冬の日差しに包まれていた。参道には湯気の立つ甘酒や焼き芋の屋台が並び、子どもたちが走り回っている。
「紬ちゃん!」
野菜を並べる八百屋の女性が手を振る。
「ゆずクリームパン、一番に買いに来たよ。」
「ありがとうございます。」
「毎年楽しみにしてるんだから。」
笑顔でパンを渡す紬。その様子を少し離れた場所から見ていた蓮は、生徒と一緒に会場設営を終えたところだった。授業はないので、白いTシャツにベージュのメッシュジャージというラフな格好。しかし、妙に様になっている。
「先生。」
女子生徒が笑う。
「パン屋さん見てます?」
「え?」
「さっきから。」
「あ……。」
蓮は苦笑した。いくら彼女が気がかりだからと、あからさまに見すぎたかもしれない。
「町の皆さんに人気なんだなと思って。」
「人気ですよ。」
女子生徒は当然のように頷く。
「私、小さい頃から知ってますけど。」
「紬さん?」
「はい。」
「町のお祭りも掃除も、困ってる人がいたらすぐ手伝うし。働き者ですもんね。だから、商店街のおじいちゃんおばあちゃんが、みんな紬さんのこと好きなんですよ。憧れます。」
そう言って生徒は友達の方へ走っていく。蓮は改めて紬を見る。パンを買った年配の女性と笑い合い、小さな子どもの頭を優しく撫でる。自然な笑顔。誰に対しても変わらない優しさ。
(頑張っているんだな。)
いつ見かけても一生懸命に働いている姿は、キラキラと眩しい。
昼過ぎ。ゆずクリームパンは残りわずかになっていた。
「紬ちゃん。」
今度は、一人の男性がパンを買いに来た。七十代くらいだろうか。町ではよく見かける顔だった。
「今日は一つでいいですか?」
紬が尋ねる。男性は少し笑って首を振った。
「五つもらおうかな。」
「珍しいですね。」
「一つは私。」
「残りは……囲碁会へ持って行こうと思って。」
紬は一瞬だけ目を細めた。以前、男性から囲碁会に参加するか迷っているという話を聞いていたのだ。
「今日からでしたね。」
「うん。」
男性は照れくさそうに頭をかく。
「誘われてはいたんだけどね。今さら友達なんてできる歳でもないと迷いがあったけど。」
紬は袋へパンを入れながら静かに笑った。
「でも、行ってみようって思われたんですね。」
「うん。家にいても、一人だからね。」
少し照れたように男性が笑う。決めた人のすっきりした顔だ。紬はゆっくり頷いた。
「きっと、皆さん喜ばれますよ。また感想、聞かせてください。」
「そうだね。」
男性はパンを受け取ると、少しだけ背筋を伸ばして歩いていった。その背中を見送りながら、蓮はふと気づく。紬は話を聞いたとき、「行った方がいい」とは言わなかった。背中を押しすぎず、相手が自分で決められるように、そっと言葉を添えるだけ。その距離感が、とても自分らしいと思った。
そして数時間後の午後。囲碁会を終えた男性が、帰り際に再び店へ立ち寄る。
「紬ちゃん。」
その表情は、朝よりずっと明るかった。
「行ってきたよ。」
「どうでしたか?」
「思ったより楽しかった。また来週も行こうと思う。」
晴れやかな顔。町の人のこんな顔が大好きだ。紬は嬉しそうに笑った。
「良かったです。」
「今日はありがとうございました。」
男性はそう言って帰っていく。パンが何かを変えたわけではない。最後の一歩を踏み出したのは、あの人自身だった。
でも、その一歩を踏み出す勇気に、ゆずクリームパンがそっと寄り添っていた。その光景を見つめながら、蓮は自然と微笑んでいた。




