甘い自覚とフレンチトースト(後編)
夕方になると、ククノチの店内は少し静かになった。窓の外では、坂道を歩く人の足音が遠く聞こえる。
千鶴は奥で仕込みの片付けをしていて、店には紬と蓮だけが残っていた。蓮は、冷めかけたコーヒーを一口飲む。
先ほどから、何度も考えていた。聞いていいのだろうか。でも、聞かなければきっと分からない。
紬のことをもっと知りたいと思う気持ちが、少しずつ大きくなっていた。
「紬さん。」
「はい。」
紬が顔を上げる。
「少し聞いてもいいですか。」
「もちろんです。」
蓮は少し間を置いた。
「さっきのお客さんのことです。」
紬の表情がわずかに変わる。
「どうして……分かったんですか?」
紬は一瞬、答えに迷った。だけど、いつか蓮に自分の特技については話しておきたかった。それが、今なのかもしれない。そして、自嘲するように小さく笑う。
「やっぱり、変ですよね。」
その瞳が思いの外暗く、蓮は驚く。
「え?」
「昔からなんです。」
紬は手元の布巾を見つめながら話す。
「その人が何を考えているか、というより……。今、どんな言葉を欲しがっているのか。何となく分かることがあるんです。」
蓮は黙って聞いていた。
「パンを作っている時も。今日のお客さんには甘いものがいいなとか。少し元気が出るものがいいなとか。ハッキリわかるわけじゃないんです。イメージ……みたいなものが、浮かぶ時があって。」
紬は困ったように笑った。
「不気味ですよね。でも、たぶん……勘がいいだけです。昔から、人の顔を見るのが癖になっていたのかもしれません。」
そう言った紬の声には、少しだけ寂しさが混じっていた。蓮は気づいた。これは紬にとって、ただの特技の話ではない。
「昔から、ですか。」
「はい。」
紬は頷く。
「小さい頃からありました。」
「でも……。」
一瞬、言葉が止まる。
「周りの人に、気味悪いって言われたこともあります。先生も、怖いですよね?」
蓮の胸が痛んだ。昨日聞いた、母との話。そして今日のこの言葉。紬はきっと、ずっと自分の中に抱えてきたのだ。自分だけが周囲と違うのではないかという不安を。
「だから。」
紬は笑おうとした。
「日頃は、あまり考えないようにしています。ただのパン屋の勘だと思っています。」
その笑顔はいつもの優しい笑顔だった。でも蓮には分かった。その奥に、傷ついた過去があることを。
蓮はふと、自分が初めてククノチへ来た日のことを思い出していた。赴任したばかりの頃。新しい土地。初めて会う生徒たち。教師としてちゃんとやれるのかという不安。
そんな時。ククノチで紬が出してくれたパン。
あの日の自分は、疲れていることすら気づいていなかった。
「今日は、甘いものがいいと思います。」
紬はそう言った。理由なんて聞かなかった。ただ、自然に差し出してくれた。あの時感じた安心感。あれは偶然ではなかったのかもしれない。
紬は、あの日からずっと。自分でも気づけなかった心に寄り添ってくれていた。
寺で生まれた自分は、周囲から見れば恵まれていた。家族は教師になることを認めてくれた。応援してくれた。
だからこそ、自分は前を向いて進むことができた。でももし、誰にも理解されないまま。大切なものを選ばなければならなかったら。どれほど心細かっただろう。
今だって蓮に嫌われないか怖くてたまらないはずなのに、彼女は本当のことを話してくれた。
「紬さん。」
蓮の声に、紬が顔を上げる。
「僕は……それを変だとは思いません。」
紬は少し驚いたように見る。
「それより、」
蓮は続ける。
「紬さんが、そのことをずっと一人で悩んできたことの方が気になります。」
紬の目が少し揺れる。
「……。」
「人には見えないものが見えるとか。特別な力があるとか。そういうことより。」
蓮は穏やかに言った。
「紬さんは、それを特技だと思って誰かを思いやっている。僕は、そこがすごいと思います。」
紬は言葉を失った。今までこの特技について、そんな風に言ってくれる人はいなかった。
怖がられるか。否定されるか。心配されるか。そのどれかだった。
でも蓮は違った。力ではなく、自分を見てくれている。
「……先生は。」
紬は小さく笑った。自分を受け入れてくれる、そんな人かもしれないと確かに期待していた。というか、この話をそういうことの一括りで終わらせるなんて。
「不思議な人ですね。」
「僕がですか?」
「はい。」
「普通なら、もっと驚くと思います。引かれるかと思ってた。」
蓮は少し考えてから笑う。
「特に引かないです。寺で育ったからかもしれません。説明できないものを、すぐ否定しないように育ったので。」
その言葉に、紬も笑った。妙に納得できる理由だったからだ。店の中に、柔らかな空気が流れる。
帰り際。蓮が扉の前で振り返る。
「紬さん。」
「はい。」
「また、パンを買いに来ます。」
「いつでも待っています。」
紬はいつものように答えた。でも。今日は少しだけ違った。蓮が帰った後。紬は胸に手を当てる。不思議だった。自分の秘密に近い部分を話したのに。
怖くなかった。妙な安心感まであった。
一方、坂道を下りながら蓮もまた考えていた。紬は、人の心を感じ取る。それ以上に、彼女は人の頭を知ろうとする人だ。蓮は一人、感心しながらこれまでの出来事に納得していた。
だから、この町の人たちは彼女を信頼している。だから、自分も、もっと彼女のそばにいたいと思う。その気持ちを自覚していた。




