甘い自覚とフレンチトースト(前編)
冬の気配が、少しずつ常磐木町に近づいていた。
朝の空気は冷たくなり、ククノチの木の扉を開けると、白い息が小さく浮かぶ。それでも店の中は、いつもと変わらず温かかった。
焼きたてのパンの香り。ストーブの小さな音。窓際に置かれた三つ葉のトケイソウ。
紬はオーブンから焼き上がったパンを取り出した。今日はフレンチトースト。ふんわりした生地に、蜂蜜と甘いシナモンの香り。
寒い日に、少しだけ心を緩めてくれるようなパンだった。
「紬ちゃん。」
千鶴がカウンター越しに声をかける。
「最近、よく笑うようになったね。」
紬の手が止まる。
「そうですか?」
「うん。」
千鶴は穏やかに笑った。
「前より、安心している顔をするようになった。」
「……。」
紬は返す言葉が見つからず、フレンチトーストに視線を落とす。
「そうかな……。」
とある人物が浮かんだが、すぐに消す。
いつも蓮が来る時間になった。ベルの音。店に入ってきた時の、少しホッとしたような表情。日頃教師として頑張っているのを知っているから、店に来た時はゆっくりしていってほしい。
それに、その時間を楽しみにしている自分がいる。
でも、その気持ちが何なのか。まだ名前をつけることはできなかった。
「藤代先生、今日も来るかねぇ。」
千鶴が何気なく言う。
「先生は忙しいですから。」
そう答えながらも、紬の声は少しだけ柔らかかった。
昼過ぎ。
カラン、と扉のベルが鳴る。
「こんにちは。」
聞き慣れた声。
「いらっしゃいませ。」
紬が顔を上げると、そこには蓮がいた。
「今日は早いですね。」
「学校が少し早く終わったので。」
蓮は店内を見渡して笑う。
「相変わらず、いい香りですね。」
「今日はフレンチトーストです。」
紬が言うと、蓮は少し嬉しそうに目を細めた。
「では、それをお願いします。」
「はい。」
そのやり取りが、以前よりずっと板についてきていることに二人は気づいていなかった。蓮は窓際の席に座る。紬がパンを運ぶ。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
一口食べる。甘さと香りが、じゅわっと広がる。
「……美味しいです。」
その言葉に、紬は嬉しそうに笑った。
「よかったです。」
その笑顔を見て、蓮はふと思う。この店に来る理由は、もうずっと前からパンだけではないのかもしれない。けれど、その考えを深く追う前に。店の扉が開いた。
「こんにちは。」
入ってきたのは、近所に住む女性だった。二十代くらいだろうか。少し疲れた顔をしている。
「今日は……。」
その女性はメニューを眺める。
「甘いものがいいかな。」
紬は少し考えた。そして、棚から一つのパンを取る。
「こちらはいかがですか?」
それはフレンチトーストだった。
「……フレンチトースト?」
「はい。」
紬は微笑む。
「今日は、少しゆっくりする時間が必要な気がしたので。」
女性は少し驚いた顔をした。
「どうして分かったんですか?」
紬は一瞬だけ目を泳がせて、困ったように笑う。
「えっと……。」
そしていつものように答える。
「なんとなくです。」
女性は不思議そうにしながらも、パンを受け取った。
「じゃあ、これにします。」
「ありがとうございます。」
女性が店を出ていく。蓮はその様子を静かに見ていた。以前から、何度も見たことがある光景だった。
お客さんが欲しいものを、紬はなぜか大体当てている。で今までは、ただ「紬さんは人を見るのが上手なんだな」そう思っていた。
けれど。先日の話を聞いたあとでは、少し違って見えた。蓮の中で、ある記憶が静かによみがえった。初めてククノチを訪れた日のこと。
まだこの町に慣れず。新任教師として新しい環境にも慣れていなかった頃。自分では気づいていなかった疲れ。言葉にできなかった寂しさ。それを、紬はまるで分かっていたように――。
「今日は、これがいいと思います。」
そう言ってパンを出してくれた。あの時、どうしてあんなにも心が軽くなったのか。蓮は、今になって気づき始めていた。
紬はパンを通して、人の心に寄り添っているのだ。
蓮はフレンチトーストの皿を見つめながら、静かに考えていた。彼女は特別なことをしているつもりなんてない。
ただ、目の前の人を見ている。その人が今、何を必要としているのか。それを大切にしているだけ。そしてそれはきっと、紬自身が誰かにしてほしかったことなのかもしれない。
「紬さん。」
「はい?」
呼ばれて、紬が振り向く。蓮はまだ、自分の中の答えを言葉にできなかった。ただ、もっと知りたいと思った。この人が見ている世界を。この人が抱えてきたものを。
「……いえ。」
蓮は微笑む。
「フレンチトースト、とても美味しいです。」
紬も笑った。
「ありがとうございます。」
その笑顔を見ながら。
蓮は、自分の中に生まれた感情の名前を、まだ知らなかった。




