昔話と黒胡麻ベーグル(前編)
秋の終わりを知らせるように、朝晩の空気が少しずつ冷たくなっていた。常磐木町の坂道には、赤や黄色に染まった葉が舞い落ちている。
ククノチの店先では、紬が小さな黒板を書き換えていた。
今日のおすすめ。黒胡麻ベーグル。
擦った黒胡麻を練り込んだ生地に、少しだけ蜂蜜を加えたパン。焼き上がると、素朴な香ばしい香りが店いっぱいに広がる。
「この香ばしさが癖になるんだよねぇ。」
千鶴が袋詰めをしながら笑う。
「また癖になる人を増やしちゃうかもね。」
紬は焼きたてのベーグルを眺めながら微笑んだ。
ククノチを継いでから、何度も思ったことがある。
この店は、ただパンを売る場所ではない。誰かが少し疲れた時。誰かが何かを迷っている時。ふと立ち寄れる場所なのだ。
それは、祖父母が長い時間をかけて作ってきたものだった。
「藤代先生、今度の日曜日って予定ありますか?」
その言葉が出た瞬間、紬自身が一番驚いていた。 放課後、ククノチへ来ていた蓮に、焼きたてのパンを渡しながら。
これまでは、もっと慎重だった。蓮といる時間が楽しい。もっと話してみたい。
そう思っていても、自分から踏み込むことにはどこかためらいがあった。
蓮は優しい。教師としても、人としても素敵な人だと思う。でも自分がそんな人と親しくできるとは思えなかった。だから、これは日頃親しくしてくれているお礼のようなものなのだ。
「日曜日ですか?」
蓮が少し驚いたように顔を上げる。
「はい。」
紬は慌てて続けた。
「あの、この前……紅葉の場所を教えてくださったので。今度は私が、常磐木町を案内できたらと思って。ちょうど朝市があるんです。」
蓮の表情が柔らかくなる。その目はほんの少し、熱を孕んで見える。
「ぜひ。」
あまりにも自然な返事に、紬は少しだけ目を丸くした。
「いいんですか?」
「もちろんです。」
蓮は笑った。
「紬さんが好きな風景なら、僕も見てみたいです。」
その言葉に、紬の胸が少しだけ温かくなる。好きな人に、と言えるほどの気持ちではない。でも、自分が大切にしているものを、大切に見てもらえることが嬉しかった。
日曜日。
常磐木町の朝市は、いつもより少し賑やかだった。坂道沿いに並んだ小さな店。地元の野菜。手作りの雑貨。焼き菓子の甘い香り。
「こっちは昔からある八百屋さんです。」
紬が紹介すると、店主のおじさんが笑う。
「紬ちゃん、今日は珍しい人を連れてきたね。」
「高校の先生なんです。」
蓮が丁寧に頭を下げる。
「藤代蓮と申します。」
「これはこれは。真面目そうな先生だねぇ。」
その言葉に、紬が笑う。
「本当に真面目ですよ。」
「紬さんまで言うんですか。」
蓮が困ったように笑う。そのやり取りを見て、店主は嬉しそうに目を細めた。
「紬ちゃんが友達を連れて歩くなんて珍しいからねぇ。昔からこの町が好きな子だったけど。小さい頃から、よくおばあちゃんのパン屋を手伝ってたもんな。」
紬の表情が少し柔らかくなる。
「覚えてるんですか?」
「覚えてるさ。小さい手で粉だらけになりながら、楽しそうにパン作ってた。」
蓮はその話を静かに聞いていた。今の紬しか知らない。穏やかで、優しくて、誰かのためにパンを焼く姿。でも、その前から。この町で、この店で。紬はずっと大切な時間を過ごしてきたのだ。
「紬さんは、この町が本当に好きなんですね。」
朝市を歩きながら、蓮が言った。紬は少し考えてから頷く。
「はい。」
「ここに来ると、帰ってきたって思うんです。」
その言葉を聞いた瞬間。蓮は、なぜか胸の奥が温かくなるのを感じた。帰る場所。自分にとって、それはどこだっただろう。岡山の寺。家族との時間。もちろん大切だった。
けれど、最近もう一つ増えた気がする。坂の途中にある、小さな木の扉。ベルの音。そして、その向こうで笑う紬。蓮はこの時間を大切にしたいと思った。
◇
昼を過ぎる頃、二人は海の見える坂道をゆっくり歩いていた。
秋の風が、紬の髪を揺らす。
「先生。」
「はい。」
「楽しかったですか?」
蓮は迷わず頷いた。
「はい。」
「町の人たちが、紬さんのことを大切にしている理由が分かった気がします。」
紬は少し照れたように笑う。
「そんな、大げさですよ。」
「大げさじゃないです。」
蓮の声は穏やかだった。
「紬さんが、この町を大切にしているからだと思います。」
その言葉に、紬は少し黙った。
胸の奥にしまっていた記憶が、静かに浮かび上がる。
この町を選んだ日のこと。
家族とぶつかった日のこと。
大好きだった場所を失うかもしれないと思った日のこと。
「……先生。」
「はい。」
「少しだけ、聞いてもらってもいいですか。」
蓮は足を止めた。
「もちろんです。」
秋の海風が、二人の間を静かに通り抜けた。




