昔話と黒胡麻ベーグル(後編)
朝市の賑わいを離れると、潮の香りがふわりと風に乗ってきた。
海へ続く坂道をゆっくり歩き、二人は小さなベンチに腰を下ろす。波は穏やかで、寄せては返す音だけが静かに響いていた。
紬は膝の上で両手を重ねたまま、しばらく海を眺めていた。
「……先生。」
「はい。」
「少しだけ、昔の話をしてもいいですか。」
蓮は穏やかに頷く。
「もちろんです。」
その返事に促されるように、紬はゆっくりと口を開いた。
「私、隣町で育ったんです。でも、小さい頃から長期休みになると、祖父母のいる常磐木町へ来ていました。」
自然と笑みがこぼれる。
「夏休みなんて、ほとんどここで過ごしていました。朝早く起きてパンを並べたり、生地を丸めるのを手伝ったり……。もちろん子どもだから、お手伝いっていうほど役には立ってなかったんですけど。」
少し照れくさそうに笑う紬に、蓮もつられて笑った。
「その頃から、パン屋さんになるのが夢だったんですか?」
「いいえ。」
紬は首を横に振る。
「その頃は、ただここが好きだったんです。祖父も祖母も、お客さんも、この町も。帰るたびに、『おかえり』って迎えてもらえるのが嬉しくて。」
帰る場所。その言葉が蓮の胸にも静かに残る。
「だから、高校生の時に祖父母が店を閉めようと思っていると聞いて……。」
紬の表情が少しだけ曇る。
「その時初めて思ったんです。私が継ぎたいって。」
蓮は静かに耳を傾ける。
「でも、母には反対されました。パン屋の大変さを知っていましたし、私が苦労するのを見たくなかったんだと思います。」
一度言葉を切り、紬は遠くの水平線を見つめた。
「それに……。」
少しだけ迷うような間があった。
「私には、小さい頃から少し、人と違うところがあって。」
蓮は何も言わない。続きを待つ。
「人の気持ちを捉えすぎるというか……。なんとなく、この人はこんなことを考えているのかなって思うことがあって。」
紬は小さく笑う。
「勘が鋭いと言うか。割と当たるんです。それが、結構パンがきっかけのことがほとんどで。」
そう言いながらも、その笑顔にはどこか影があった。蓮はこれまでの出来事から、紬の言うことが妙に腑に落ちていた。確かに彼女には人の心を察する力があるのだろう。
「母は、そのことで私が傷つくのを心配していました。だから、『パンに触れない方がいい』『あの町には行かない方がいい』って。……当時の私は、それを『否定された』って受け取ってしまったんです。」
風が静かに吹き抜ける。蓮はすぐには言葉を返さなかった。慰めることも、否定することも簡単だった。
でも、それでは紬が勇気を出して話してくれた意味が薄れてしまう気がした。しばらくして、蓮が静かに口を開く。
「僕も、少しだけ似た経験があります。」
紬が顔を上げる。
「先生もですか?」
「はい。」
蓮は少し照れたように笑った。
「僕、寺で育ったんです。」
「子どもの頃は、周囲も自分も将来は寺を継ぐものだと思っていました。でも、高校生くらいから教師になりたいと思うようになって。」
紬は驚いたように目を丸くする。
「反対されませんでしたか?」
「心配はされました。」
蓮は頷いた。
「でも最後は、『お前が決めた道なら応援する』と言ってくれました。」
少しだけ空を見上げる。
「だから僕は、家族に背中を押してもらえました。帰る場所を失わずに、自分の夢を選べたんです。」
その言葉は、穏やかだった。だからこそ続く一言が、紬の胸に静かに届く。
「紬さんの苦労を、全部分かるなんて言えません。僕には、支えてくれる家族がいましたから。」
紬は黙って聞いている。蓮は紬の方を向いた。
「だから紬さんは、本当に勇気のある人だと思います。大好きな場所を守るために、自分で選んで、自分で歩いてきた。その強さを、僕は尊敬します。」
――尊敬。
その言葉に、紬は少しだけ目を潤ませた。今まで何度も「頑固だ」と言われた。「無理だ」とも言われた。でも、自分の選んだ道を「尊敬する」と言われたのは初めてだった。
「そんな……。」
紬は小さく笑う。
「一人じゃなかったですよ。祖父母もいましたし、町のみなさんも、ずっと支えてくれました。だから、今の私があります。」
蓮は頷いた。この町の人たちが紬を大切にする理由が、少し分かった気がした。
紬は、自分一人の力で生きてきたと思っていない。支えられたことを忘れず、その優しさを今度は誰かへ返している。
だから、ククノチには自然と人が集まるのだ。
夕日が海を橙色に染め始める。二人はゆっくり立ち上がり、坂道を歩き出した。店の前まで戻ると、紬は足を止める。
「今日は、ありがとうございました。話せてよかったです。」
蓮は柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ。話してくださって、ありがとうございました。」
ベルが鳴り、蓮は帰っていく。その背中を見送りながら、紬は胸に手を当てた。誰かに過去を話すことは怖かった。それでも今日は、不思議なくらい心が軽かった。
ーー先生だから話せた。その理由を、紬は自覚していない。
一方、坂道を下る蓮は、夕暮れの町を歩きながら考えていた。寺を離れ、教師になった自分。パン屋を守るために、たった一人で決断した紬。
同じ「道を選んだ」者同士でも、その重さはまるで違っていた。
――もっと、彼女のことを知りたい。
紬という一人の人間への尊敬は、確かに蓮の心の中で静かに根を張り始めていた。




