進路相談ときのこシチューパン(後編)
窓際の席に置かれたきのこシチューパンから、湯気がゆっくりと立ち上っていた。
蓮は一口頬張る。
まいたけの香りとオリーブオイルの風味が口いっぱいに広がり、張り詰めていた気持ちが少しずつほどけていく。
「今日のおすすめなんです。」
紬は向かいではなく、少し離れたカウンター越しに微笑んだ。
「おいしいです。」
蓮は素直に頷く。
「きのこの香りがすごくいい。」
「ありがとうございます。」
それだけのやり取りだが、学校から連れて来てしまった張り詰めた空気が流れていくのを感じた。紬は蓮の表情を見つめる。
パンを食べながら、どこか上の空で考え込んでいる顔。無理に聞けば、きっと話してくれる。でも紬は、そんなことは野暮なのでしない。事情はそれぞれだからだ。相手が話したくなるまで待つ。それが紬が今できる1番の優しさだった。
静かな時間がしばらく流れたあと、蓮がぽつりと口を開いた。
「今日、生徒から進路相談を受けたんです。」
紬は黙って耳を傾ける。
「製菓の専門学校へ行きたい女の子でした。」
その言葉に、紬の手がほんの少し止まった。
「でも、ご両親が反対しているそうで。」
蓮は今日の出来事をゆっくりと話した。
夢。親の心配。教師として、自分なりに伝えた言葉。そして生徒が最後に見せた、どこか諦めたような笑顔。
「間違ったことは言っていないと思うんです。」
蓮は自分に言い聞かせるように続ける。
「でも、あの子が本当に聞きたかったことは、違った気がして。」
紬は少し考えてから、静かに言った。
「その子は……今もモヤモヤしているでしょうね。心配ですか?」
「はい。」
「夢を諦めるか、親を安心させてあげるか。どちらも大切だから、苦しいんだと思います。」
蓮は頷く。そのときだった。
ガラン——。
ベルが鳴った。
「こんにちは。」
店に入ってきたのは、一人の女子高生だった。制服姿のまま、小さく頭を下げる。
「あ……。」
蓮は思わず声を漏らした。
「小山さん。」
向こうも驚いたように目を見開く。
「先生……。」
一瞬、店の空気が止まる。
「今日は、ここにパンを買いに来たんです。先生がよくいくパン屋さんってククノチだったんだ。」
小山はどこか気まずそうに笑った。紬は二人を見比べると、何も聞かずに微笑んだ。
「よかったら、お二人とも座りませんか。」
そして厨房へ戻る。少しして、同じきのこシチューブールと、温かな飲み物を運んできた。
「今日は、これが焼きたてなんです。」
小山は気まずさもあるのか、戸惑ったように蓮を見る。蓮も少し照れたように笑った。
「せっかくだから、一緒に食べようか。」
三人は小さなテーブルを囲んだ。最初は誰も話さない。けれど、ブールを一口食べた小山が、小さく笑った。
「……おいしい。」
「ありがとうございます。」
紬が穏やかに答える。
「私、このパン好きです。」
その笑顔は、学校で見たものより少しだけ自然だった。紬はその表情を見て、ゆっくり話し始めた。
「私はパン屋になることを母に反対されていたんです。」
小山は驚いたように紬を見る。
「そうなんですか?」
紬は少し笑う。
「実は、ですけれど。」
蓮は思わず紬の方を見てしまった。初めて聞いた話だ。
小山は少しだけ肩の力を抜いて話し始めた。
「……私、パンも、お菓子も大好きなんです。」
紬は静かに頷いた。
「でも両親は大学に進学しなさいって。パン屋さんと同じです。」
紬はゆっくり頷いて、少し遠くを見るように笑った。
「私は祖父母のパン屋が大好きで、守りたかった。でも母は、私に別の人生を歩んでほしかった。」
ククノチを継ぐことを決めた日。あの日の苦しさは今も覚えている。
「だから、何度も迷いました。私が間違っているのかなって。」
小山は黙って聞いている。
「結局、私はパン屋を選びました。だから……。」
紬は優しく続けた。
「今でも、母がどう思っているのか、本当は分からないんです。」
その一言に、店内が静かになった。
「だから私は、『夢だけを選べばいい』とも、『親の言うことを聞けばいい』とも言えません。」
小山の目が少し潤む。
「でも、一つだけ思うことがあります。」
紬は小山をまっすぐ見つめた。
「後悔しないように、お父さんやお母さんと、何度でも話してください。私は結局、うまく伝えられなかったし、母の本当の気持ちを聞く勇気がなくて、今は疎遠になってしまいました。だけど、言葉にしないと伝わらない気持ちって、きっとあるから。」
小山は俯き、小さく頷いた。
「……私。」
声が震える。
「反対された日から、一度もちゃんと話してないです。どうせ分かってもらえないって思って。」
紬は穏やかに笑う。
「私も、そう思っていました。」
その言葉は慰めではない。同じ痛みを知る人だからこその言葉だった。
蓮は二人のやり取りを静かに見つめていた。自分は今日、「話し合ってみたら」と伝えた。
紬もまた伝えていることは同じだった。ただし、実体験をもとに、蓮が伝えたかったことを伝えてくれた。だからこそ、彼女の心に届いたように感じた。
「……ありがとうございます。」
小山は深く頭を下げた。その表情は、昼間より少しだけ前を向いていた。
店を出ていく背中を見送ったあと、蓮はぽつりと言った。
「紬さん。」
「はい。」
「今日、僕一人だったら、あの子は笑って帰れなかったと思います。」
紬は首を横に振る。
「そんなことありません。」
「先生のお話があったから、私も話せたんです。」
蓮は小さく笑った。
「教師なのに、教えられてばかりですね。」
「そんなことないですよ。」
紬も笑う。
「一人でできることって、そんなに多くないですから。」
その言葉が、蓮の胸に静かに残った。一人では届かなかった。でも、紬がいたから届いた。
夕暮れの光が店の床をやさしく照らしている。蓮はコーヒーカップを包むように持ちながら、心の中でそっと思った。
(この人は、自分には見えないものが見えているように感じる。僕はこの人のことを尊敬している。)
その想いには、まだ名前はなかった。けれど、その芽は確かに、静かに育ち始めていた。




