進路相談ときのこシチューパン(前編)
朝靄がゆっくりと坂の町を包み込んでいた。海から届く冷たい風に、軒先の柿が小さく揺れる。ククノチでは、まだ開店前だというのに厨房の中は温かな湯気で満ちていた。
今日のおすすめは、秋限定のきのこシチューブール。しめじ、まいたけ、エリンギをオリーブオイルでじっくり炒め、香りづけにローリエをほんの少し。
焼き上がるころには、きのこの旨みとパンの香ばしい匂いが店いっぱいに広がる。
「今年はまいたけを少し多めにしたんじゃね。」
千鶴が焼き色を確かめながら言う。
「うん、。香りがよく出るかなと思って。」
紬は焼き上がったブールを木の網へ並べる。ぱちぱち、と小さく音を立てながらパンが息をしているようだった。
「おじいちゃん、このパン好きだったよね。」
ふと漏れた一言に、千鶴は目を細める。
「そうだねぇ。秋になると、『きのこは森の匂いがする』ってよく言ってたよ。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。祖父が亡くなって数年。それでも季節のパンを焼くたび、その笑顔を思い出す。ククノチはそういう場所だった。
人がいなくなっても、思い出がちゃんと残り続ける場所。
常磐木高校。
昼休みが終わり、校内が少し静かになったころ。職員室の前で、一人の女子生徒が何度も足を止めていた。
二年生の女子生徒。文化祭では実行委員として忙しく動き回っていた真面目な生徒だ。職員室の扉へ手を伸ばしかけては引っ込める。廊下を少し歩いて戻ってくる。そんなことを三度ほど繰り返した。
「小山さん?」
声を掛けられ、小山は肩を震わせた。藤代蓮だった。
「あ……藤代先生。」
「何か用?」
「少しだけ、お時間ありますか。」
蓮は腕時計を見る。次の授業までは三十分ほどある。
「もちろん。」
二人は空いている相談室へ移動した。午後の日差しが窓から差し込み、静かな部屋をやわらかく照らしている。
しばらく沈黙が続いた。小山は膝の上で制服のスカートをぎゅっと握りしめる。
「焦らなくて大丈夫。」
蓮が穏やかに言う。
「ゆっくり話して。」
その一言で、小山は小さく息を吐いた。
「私……製菓の専門学校へ行きたいんです。」
「そうなんだ。」
「お菓子を作る仕事がしたくて。」
その声は少しだけ明るかった。夢を話すときだけ、人は自然と表情が変わる。蓮はその変化を感じ取った。
「でも、親が反対してるんです。」
笑顔はすぐに消えた。
「大学へ行きなさいって。好きなことだけじゃ生きていけないって。」
静かな部屋に、小山の声だけが響く。
「私、子どもの頃からケーキ屋さんになりたかったんです。毎年、誕生日ケーキも自分で作るくらい好きで。それなのに、『趣味ならいいけど仕事は違う』って。」
蓮はゆっくりとうなずいた。教師として、これまで進路相談はこなして来た。夢と現実。理想と生活。どちらも大切だと知っている。
「……ご両親は、小山さんのことが心配なんだと思う。」
小山は黙って聞いていた。
「だから、一度落ち着いて話し合ってみるのはどうかな。」
「製菓の道もいろいろあるし、大学へ進学してから目指す方法だってある。焦って決めなくても――」
そこまで言ったときだった。小山は小さく笑った。
「……そうですよね。」
その笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。
「先生なら、そう言いますよね。」
その言葉に、蓮は胸の奥が小さく痛んだ。小山が求めている言葉は、何かが違うのだろう。そう感じるのに、その違和感の正体が分からない。
「先生、ありがとうございました。」
小山は深く頭を下げ、相談室を出て行った。
閉まった扉を見つめたまま、蓮はしばらく動けなかった。
(ーー求めているアドバイスに辿り着けなかった。間違ったことは言ってない。)
教師として、偏った助言もしていない。それでも。小山が本当に欲しかった言葉は、あれではなかった気がした。
放課後。夕日に染まり始めた坂道を、蓮はゆっくり歩いていた。気づけば足は、いつもの場所へ向かっている。
ククノチ。
木の扉を開くと、ベルが澄んだ音を鳴らした。
ガラン——。
「いらっしゃいませ。」
紬が顔を上げる。その笑顔を見た瞬間、蓮はようやく息をついた。自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。
「こんにちは。」
「こんにちは、藤代先生。」
紬は蓮の表情を見て、小さく首をかしげた。
「今日は……少しお疲れですか?」
問い詰めるでも、心配しすぎるでもなく。ただ、いつもとの小さな違いに気づいただけ。その一言に、蓮は苦笑した。
「顔に出てましたか。」
「少しだけ。」
「紬さんには嘘がつけませんね。」
「そんなことありません。」
紬は穏やかに笑う。
「でも先生が元気がない日はすぐにわかりますよ。」
その言葉で不思議と心が少し軽くなった。蓮は窓際の席へ腰を下ろす。紬は焼きたてのきのこのフォカッチャと、湯気の立つコーヒーをそっと運んできた。
香ばしいきのこの香りが、静かな店内にゆっくりと広がっていった。




