↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
34/79

進路相談ときのこシチューパン(前編)

 朝靄がゆっくりと坂の町を包み込んでいた。海から届く冷たい風に、軒先の柿が小さく揺れる。ククノチでは、まだ開店前だというのに厨房の中は温かな湯気で満ちていた。


 今日のおすすめは、秋限定のきのこシチューブール。しめじ、まいたけ、エリンギをオリーブオイルでじっくり炒め、香りづけにローリエをほんの少し。


 焼き上がるころには、きのこの旨みとパンの香ばしい匂いが店いっぱいに広がる。


「今年はまいたけを少し多めにしたんじゃね。」


 千鶴が焼き色を確かめながら言う。


「うん、。香りがよく出るかなと思って。」


 紬は焼き上がったブールを木の網へ並べる。ぱちぱち、と小さく音を立てながらパンが息をしているようだった。


「おじいちゃん、このパン好きだったよね。」


 ふと漏れた一言に、千鶴は目を細める。


「そうだねぇ。秋になると、『きのこは森の匂いがする』ってよく言ってたよ。」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑った。祖父が亡くなって数年。それでも季節のパンを焼くたび、その笑顔を思い出す。ククノチはそういう場所だった。


 人がいなくなっても、思い出がちゃんと残り続ける場所。




 常磐木高校。

 昼休みが終わり、校内が少し静かになったころ。職員室の前で、一人の女子生徒が何度も足を止めていた。

 二年生の女子生徒。文化祭では実行委員として忙しく動き回っていた真面目な生徒だ。職員室の扉へ手を伸ばしかけては引っ込める。廊下を少し歩いて戻ってくる。そんなことを三度ほど繰り返した。


「小山さん?」


 声を掛けられ、小山は肩を震わせた。藤代蓮だった。


「あ……藤代先生。」


「何か用?」


「少しだけ、お時間ありますか。」


 蓮は腕時計を見る。次の授業までは三十分ほどある。


「もちろん。」


 二人は空いている相談室へ移動した。午後の日差しが窓から差し込み、静かな部屋をやわらかく照らしている。


 しばらく沈黙が続いた。小山は膝の上で制服のスカートをぎゅっと握りしめる。


「焦らなくて大丈夫。」


 蓮が穏やかに言う。


「ゆっくり話して。」


 その一言で、小山は小さく息を吐いた。


「私……製菓の専門学校へ行きたいんです。」


「そうなんだ。」


「お菓子を作る仕事がしたくて。」


 その声は少しだけ明るかった。夢を話すときだけ、人は自然と表情が変わる。蓮はその変化を感じ取った。


「でも、親が反対してるんです。」


 笑顔はすぐに消えた。


「大学へ行きなさいって。好きなことだけじゃ生きていけないって。」


 静かな部屋に、小山の声だけが響く。


「私、子どもの頃からケーキ屋さんになりたかったんです。毎年、誕生日ケーキも自分で作るくらい好きで。それなのに、『趣味ならいいけど仕事は違う』って。」


 蓮はゆっくりとうなずいた。教師として、これまで進路相談はこなして来た。夢と現実。理想と生活。どちらも大切だと知っている。


「……ご両親は、小山さんのことが心配なんだと思う。」


 小山は黙って聞いていた。


「だから、一度落ち着いて話し合ってみるのはどうかな。」


「製菓の道もいろいろあるし、大学へ進学してから目指す方法だってある。焦って決めなくても――」


 そこまで言ったときだった。小山は小さく笑った。


「……そうですよね。」


 その笑顔は、どこか遠くを見ているようだった。


「先生なら、そう言いますよね。」


 その言葉に、蓮は胸の奥が小さく痛んだ。小山が求めている言葉は、何かが違うのだろう。そう感じるのに、その違和感の正体が分からない。


「先生、ありがとうございました。」


 小山は深く頭を下げ、相談室を出て行った。


 閉まった扉を見つめたまま、蓮はしばらく動けなかった。


(ーー求めているアドバイスに辿り着けなかった。間違ったことは言ってない。)


 教師として、偏った助言もしていない。それでも。小山が本当に欲しかった言葉は、あれではなかった気がした。


    


 放課後。夕日に染まり始めた坂道を、蓮はゆっくり歩いていた。気づけば足は、いつもの場所へ向かっている。


 ククノチ。


 木の扉を開くと、ベルが澄んだ音を鳴らした。


 ガラン——。


「いらっしゃいませ。」


 紬が顔を上げる。その笑顔を見た瞬間、蓮はようやく息をついた。自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていたらしい。


「こんにちは。」


「こんにちは、藤代先生。」


 紬は蓮の表情を見て、小さく首をかしげた。


「今日は……少しお疲れですか?」


 問い詰めるでも、心配しすぎるでもなく。ただ、いつもとの小さな違いに気づいただけ。その一言に、蓮は苦笑した。


「顔に出てましたか。」


「少しだけ。」


「紬さんには嘘がつけませんね。」


「そんなことありません。」


 紬は穏やかに笑う。


「でも先生が元気がない日はすぐにわかりますよ。」


 その言葉で不思議と心が少し軽くなった。蓮は窓際の席へ腰を下ろす。紬は焼きたてのきのこのフォカッチャと、湯気の立つコーヒーをそっと運んできた。

 香ばしいきのこの香りが、静かな店内にゆっくりと広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。