気持ちふんわりさつまいもパン(後編)
蓮は窓際の席に腰を下ろし、焼きたてのさつまいもパンを手に取った。ふわりと立ちのぼる湯気。
生地を割ると、黄金色のさつまいも餡がほくほくと顔をのぞかせる。
「いただきます。」
一口かじる。やさしい甘さが口いっぱいに広がり、思わず頬が緩んだ。
「……おいしい。」
その言葉は、飾りのない本音だった。
「今年のお芋は特に甘いんです。」
カウンター越しに紬がうれしそうに笑う。夕方が近づき、最後の常連客を見送る。
蓮も立ち上がり、紙袋を手にした。
「じゃあ、お邪魔しました。」
「ありがとうございました。」
蓮が扉へ向かいかけた、そのときだった。
「……藤代先生。」
少しだけためらうような声。蓮が振り返る。
「はい?」
紬は一度視線を下げ、小さく息を吸った。
「あの……。」
言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「この前、紅葉、とても素敵な場所へ連れて行っていただいたので。」
蓮は穏やかにうなずいた。
「あの日は、私もすごく楽しかったです。」
その言葉だけで、蓮の表情がやわらぐ。
「だから……。」
紬は少し照れたように笑う。
「今度は、お返しをしたいなと思って。」
「お返し?」
「はい。」
紬の丸く黒目の大きな瞳が、店の外へ目を向けられた。
「今度のお休みに、商店街で収穫祭があるんです。」
「収穫祭?」
「町の畑で採れた野菜を並べたり、焼き芋をしたり、小さなお祭りなんですけど。」
紬の声は、町を紹介するときらしく少しだけ弾んでいた。
「私は毎年、少しだけ顔を出すんです。」
そして少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「もし、ご予定がなければ……。」
一拍置いて。
「今度は、私が常磐木町をご案内させてもらえませんか。」
店内が静かになる。蓮は一瞬だけ驚いた表情を見せ、それから自然に笑った。
「ぜひ。」
返事に迷いはなかった。
「行きたいです。」
紬はほっとしたように笑う。
「よかった。」
「実は、この町のお祭りってまだ行ったことがなくて。」
「そんなに大きなお祭りじゃないですよ。」
「それがいいんです。」
蓮は店の中を見回した。
「紬さんが好きな町を、見てみたい。」
その言葉に、紬の心臓が跳ねる。今紬さん、と名前で呼ばれた。蓮の様子を伺うが、本人はあまり自覚がないのか、自然な様子でこちらを見ている。
「じゃあ……当日、神社の鳥居の前で待ち合わせにしましょうか。」
「分かりました。」
二人は笑顔で約束を交わした。
その様子を、厨房から千鶴がそっと見ていた。
(今度は紬から誘えたんじゃね。)
声には出さない。背中を押すこともしない。ただ、静かに目を細める。
(少しずつでええ。急がんでも、ちゃんと歩いとる。)
店を出た蓮は、夕暮れの坂道をゆっくり歩く。紙袋からは、焼きたてのさつまいもパンの甘い香り。
ふと振り返ると、ククノチの窓からやわらかな灯りがこぼれていた。思わず笑みがこぼれる。
「……紬さんに誘ってもらえるとは思わんかったな。」
内気な彼女のことだから、勇気を出して誘ってくれたに違いない。それはただの、紅葉のお返しなのかもしれない。紬にとっては、町を案内してくれるだけのつもりだろう。それ以上でもそれ以下でもないはずだ。それでも。次の休日を思うだけで、心が少し軽くなる。
ただ、常磐木町へ続く坂道が、少しずつ「帰りたい場所」になり始めていることだけは、確かだった。




