気持ちふんわりさつまいもパン(前編)
紬と蓮が紅葉を見に行った休日から、三日が過ぎた。
朝の常磐木町は、冷えた空気の中にもやわらかな陽射しが差し込み、坂道の木々は日に日に色づきを深めていた。
ククノチの厨房では、紬が焼き上がったパンを一つひとつ網の上へ並べていく。
「今日はいい色に焼けたねぇ」
祖母の千鶴が、焼きたてのさつまいもパンを見つめて目を細める。
丸い生地の表面には黒ごまが散りばめられ、中にはほくほくのさつまいも餡がたっぷり詰まっている。焼き上がると甘い香りが店いっぱいに広がり、秋の訪れを知らせてくれるパンだった。
「今年のお芋、甘いね」
「良い出来ね。町の畑のお芋だからね」
紬は笑みを浮かべながら、パンを並べていく。店の窓越しには、いつもの坂道。通学する高校生。犬の散歩をする夫婦。八百屋へ向かうおばあさん。いつもと変わらない朝。
なのに――。
(今日は来るかな)
ふと、そんなことを考えた自分に気づいて、小さく首を振った。
(文化祭が終わったばかりだもの。忙しいよね)
そう思い直しても、ベルが鳴るたびに胸が少しだけ期待してしまう。その気持ちを、まだ紬自身もうまく説明できなかった。
昼前になると店は少し落ち着いた。近所の保育士が昼食用のパンを買い、商店街の電器店の店主がコーヒーを飲みに立ち寄る。
ククノチには、誰かが長居をしなくても、不思議と穏やかな時間が流れていた。
「こんにちは」
聞き慣れた声に、紬は顔を上げた。
「藤代先生」
思わず声が少し弾む。蓮は肩からトートバッグを下げ、少し疲れたように笑った。
「文化祭の片付けがようやく終わりまして」
「お疲れさまでした」
「やっと普通の毎日に戻れそうです」
そう言って笑う表情は、文化祭の頃よりずっと力が抜けている。紬も自然と笑顔になった。
「今日は何になさいますか?」
蓮は迷わず黒板に書いてある今日のおすすめパンを確認する。
「……さつまいもパン、あります?」
「ちょうど、焼きたてですよ。」
「じゃあ、それをください。」
紬が袋へ入れていると、蓮がパンを眺めながら言った。
「この前の紅葉、思い出しています。」
その一言だけで、あの日の景色が胸によみがえる。赤や黄色に染まった山。二人で分け合ったくるみパン。静かな時間。
「良い時間でしたからね。」
紬は少し照れながら笑った。
「別の季節も見てみたいです。」
「ええ、機会があればまた是非。」
短い会話なのに、不思議と心が温かくなる。沈黙が気まずくない。そのことに、蓮は内心少し驚いていた。
(不思議と落ち着く。)
仕事の話でもない。特別な話題でもない。それなのに、この店では時間がゆっくり流れる。それはパンの香りなのか。町の空気なのか。
それとも――。
目の前で微笑む、小柄で可愛らしい女性。自分が結構、いやかなり好意を持っているーー紬の存在なのか。
「先生?」
「あ、すみません」
考え込んでいたことに気づき、蓮は照れ笑いを浮かべる。
「ぼーっとしてました」
「お疲れなんですね」
「少しだけ」
紬は棚からもう一つ、小さなパンを取り出した。
「これ、新しく焼いた試作品なんです」
「試作品?」
「小さいサイズなので、よかったら味見してください」
「いいんですか?」
「感想を聞きたくて」
蓮は嬉しそうに受け取る。何だか特別な客になれた気がして面映い。
「じゃあ遠慮なく」
試作品のパンは、ひと口サイズだった。蓮が口に入れると、小麦の香ばしさともちもちとした食感が口の中に広がる。
「……おいしいです」
「本当ですか?」
「うん。硬さもちょうどええ。」
思わず出た岡山弁に、二人とも笑った。
「また岡山県の言葉ですね。」
「あ……。」
「私はその話し方、好きですよ。」
ーー好き。何気ない一言。けれど蓮の心臓が、小さく跳ねた。
「……ありがとうございます」
それ以上言葉が出なかった。蓮は必死に動揺を隠していたが、耳が赤い。店内には焼きたてのパンの香りだけが静かに漂っていた。




