紅葉とくるみパン(後編)
東屋の屋根を、さらりと風が渡っていく。色づいたもみじが一枚、また一枚と舞い落ち、二人の足元へ静かに積もっていく。
紬は半分に割ったくるみパンを蓮へ差し出した。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
蓮は受け取り、一口かじる。表面は香ばしく、中はふんわりとやわらかい。
噛むたびに、くるみの軽やかな食感と優しい甘みが口いっぱいに広がった。
「おいしいです。くるみが主張しすぎなくて、生地とよく合っていますね。」
紬はほっと息をつく。
「実は少しだけ配合を変えたんです。」
「秋は甘いパンが増えるので、毎日食べても飽きないようにしたくて。」
「なるほど。」
蓮はもう一口食べながらうなずく。
「小鳥遊さんらしいですね。」
「え?」
「誰かを驚かせるより、毎日安心して食べられるものを大事にしている。そんなパンばかりですよね。」
紬は少し照れくさそうに笑った。その言葉は、自分では気づかなかったククノチらしさを教えてもらったようで、胸が温かくなった。
水筒からコーヒーを注ぐ。湯気がゆっくりと立ちのぼり、冷え始めた空気に溶けていく。
「先生は、どうして英語の先生になろうと思ったんですか?」
ふと浮かんだ疑問を、紬は口にした。蓮は紙コップを両手で包みながら少し考える。
「学生の頃、お世話になった先生がいたんです。」
「英語が得意だったわけではないんですが、その先生は文法よりも『伝えようとすること』を大事にする人でした。」
紬は静かに耳を傾ける。
「英語って、結構多くの人が第二言語として使っているんですよ。だから、人と人をつなぐ言葉なんだと教えてくれたんです。だから僕も、そんな英語の素敵なところを伝えられる先生になれたらいいなと思って。」
紬は優しく微笑んだ。
「先生にぴったりですね。」
「そうでしょうか。」
「はい。」
「学校で先生が生徒さんと話しているのを見た時、みんな安心した顔をしていました。」
文化祭の打ち合わせで高校を訪れた日のことが、ふとよみがえる。蓮は少し照れたように笑った。
「あの日は……少し恥ずかしかったです。」
「え?」
「学校の僕を見られるとは思っていなかったので。」
紬も思わず笑う。
「でも、すごく素敵でした。」
「普段のお店でお話しする先生とは少し違っていて。生徒さん一人ひとりをちゃんと見ているんだなって思いました。」
蓮は照れ隠しのようにコーヒーを一口飲む。
「ありがとうございます。」
その短い言葉のあと、二人は顔を見合わせて笑った。
帰り道。石段をゆっくり下りながら、紬は道端に咲く小さな草花へ目を留める。
その向こうに、大きく葉を広げたシダ植物が揺れていた。
「……あ。」
思わず足が止まる。
「どうしました?」
「いえ……。」
紬は首をかしげる。
「今の木を見たら、なんだか懐かしい気がして。」
「懐かしい?」
「うまく言えないんですけど。前にも見たことがあるような……。」
蓮もシダへ目を向ける。
「ここには何度か来ていますが気にしたことがありませんでした。町には昔からありますよね。」
「そうなんです。だから懐かしいのかしら。」
紬は小さく笑った。自分でも理由は分からないでも胸の奥が、少しだけざわめいた。しかしそれはすぐに風と一緒に消えていった。
蓮の車でククノチへ戻る頃には、空は茜色に染まり始めていた。店の前で車を降りる。
「今日はありがとうございました。」
紬が頭を下げる。
「こちらこそ。」
蓮は穏やかに笑う。
「お礼のお礼ができました。」
その言葉に、紬は吹き出した。
「これで本当に終わりですね?」
「それはどうでしょう。」
「またお礼をしてしまうかも。」
「それじゃ、本当に終わりませんね。」
二人は顔を見合わせ、自然に笑い合った。その笑顔は、以前よりも少しだけ近い。
恋人と言うにはよそよそしい。お互いに、その気持ちに名前をつけていない。ただ、一緒に過ごす時間が心地いい。それだけは、二人とも確かに感じていた。
その夜。 岡山の実家から蓮に一本の電話が入る。
「もしもし。」
『蓮、元気にしとる?』
母の懐かしい岡山弁が耳に届く。
『今日な、おじいちゃんの書斎を片付けよったんよ。』
その話から、祖父が祖母と出会う前に大切な女性と親しくしていたらしいこと、そして祖母が「あの人には、大事な約束をした人がおったんよ」と静かに話していたことを知る。
電話を切ったあと、蓮は机の上の一枚の絵葉書へ目を向けた。近頃、祖父の過去にまつわる話がよく自分に入ってくる。
「じいさん、何か伝えたいことがあるんですか。」
シダ植物が生い茂る庭。祖父が晩年まで大切にしていた風景。
「約束、か……。」
意味は分からない。ただ、その言葉だけが静かに胸へ残った。
一方その頃、紬は眠りの中で、またあの庭へ立っていた。空を覆うほど大きなシダ植物。苔むした石段。その先で、誰かが振り返った気がした。けれど、顔は見えない。
風だけが、遠い約束を知っているように木々を揺らしていた。




