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紅葉とくるみパン(前編)

 水曜日の朝。ククノチの定休日は、町全体まで少しゆっくり時間が流れているように感じられる。

 店のシャッターは下りたまま。厨房では、紬が小さなバスケットを用意していた。

 焼きたてのくるみパン。水筒に入れた温かいコーヒー。紙ナプキンを数枚。


「そんなに緊張しなくてもいいのに。」


 千鶴が湯のみを片手に笑う。


「顔に緊張してますって書いてあるよ。」


「そんな顔してる?」


 紬は照れくさそうに頬へ手を当てた。


「してる、してる。」


 千鶴は楽しそうにうなずく。


「先生と二人で出かけるなんて初めてだからねぇ。」


 その言葉に、紬は少しだけ動きを止めた。確かにそうだ。これまで話す場所は、いつもククノチだった。

 今日はお店を離れて、同じ景色を見ながら歩く。そう思うだけで、胸が少し落ち着かない。


「いってきます。」


「うん、いってらっしゃい。ゆっくり楽しんでおいで。」


 千鶴は孫の背中を見送りながら、小さく微笑んだ。


 店の前へ出ると、秋の空はどこまでも高く澄んでいた。しばらくすると、一台の白い車が坂を上ってくる。紬に気づいた蓮が、静かに車を停めた。


「お待たせしました。」


「いいえ、私も準備が終わったところです。」


 お互いに少し照れたように笑う。


「荷物、お持ちします。」


「大丈夫です。そんなに重くありませんから。」


 そう言いながらバスケットを抱える紬だったが、蓮は自然な動作で受け取った。


「今日は案内役ですから。これくらいはさせてください。」


「ありがとうございます。」


 この人はいつも自然だな。きっと染みついた動作なのだ。紬は素直に頭を下げた。車がゆっくりと町を離れる。

 窓の外には海が広がり、その向こうで秋の陽射しが波をきらきらと照らしていた。


「今日は本当にいい天気ですね。」


「はい。」


「紅葉日和です。」


 穏やかな会話が、静かな車内に心地よく響く。


 町外れのお寺は、小高い山の中腹にあった。石段の両側には、赤や黄色に色づいたもみじが並び、歩くたびに落ち葉がかさりと音を立てる。


「きれい……。」


 紬は思わず立ち止まった。陽の光を透かした紅葉は、まるで一枚一枚が輝いているようだった。


「先日見つけた場所なのですが。」


 蓮は空を見上げながら言う。


「何度見ても飽きません。」


「そうでしょうね。」


 紬もうなずく。


「同じ景色なのに、毎日少しずつ違うのでしょうね。」


「ええ。」


「だから面白いんでしょうね。」


 二人は並んでゆっくり石段を上っていく。境内には観光客もほとんどおらず、聞こえるのは風に揺れる木々の音だけだった。

 その静けさが、不思議と心を落ち着かせる。



 本堂へ手を合わせたあと、蓮が境内の奥へ歩き出した。


「もう少し先に、好きな場所があるんです。」


「まだあるんですか?」


「はい。」


「秘密の休憩場所です。」


 その言い方がおかしくて、紬はくすっと笑う。木立の間を抜けると、小さな東屋が現れた。

 目の前には、色づいた山々がゆるやかに連なっている。


「わあ……。」


 紬は思わず息をのんだ。


「こんな景色があったなんて。」


「僕の常磐木町のお気に入りなんです。秋は本当に美しいけれど、夏の緑も良かったですよ。」


 蓮も静かに笑う。紬はバスケットを開き、焼いてきたくるみパンを取り出した。


「せっかくなので、ここで食べませんか。」


「ぜひ。」


 くるみパンを半分に割ると、香ばしい香りがふわりと広がる。


「焼きたてですね。」


「今朝焼いたばかりです。できたばかりを先生に食べてもらいたくて。」


 その一言に、蓮は少しだけ驚いたように目を瞬かせた。


「……ありがとうございます。」


 穏やかな秋風が、二人の間を静かに吹き抜けていく。

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