秋を知らせる紅玉アップルパイ(後編)
「こんにちは。」
蓮はいつものように店内を見回し、焼きたてのパンの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「今日は、ずいぶん甘い香りがしますね。」
「アップルシナモンロールの香りです。」
紬は少しうれしそうに答える。
「今年最初の焼き上がりで。」
「なるほど。」
蓮はショーケースをのぞき込み、焼き色の美しいアップルシナモンロールに目を細めた。
「きれいですね。」
「見ているだけで秋を感じます。」
その何気ない一言が、紬にはとてもうれしかった。
「実は……。」
紬は少しだけ息を整え、厨房へ向かった。戻ってきた手には、小さな白い箱がある。赤い細いリボンが結ばれた、贈り物用の箱だった。
「藤代先生。」
「はい。」
「アップルパイを焼きました。この前のお礼です。」
蓮は箱と紬の顔を交互に見て、小さく首をかしげる。
「お礼……?」
「病院へ連れて行ってくださった時のお礼です。あの日、本当に助かりました。おばあちゃんも、『先生にちゃんとお礼を言わなくちゃ』って。」
そう言って箱を差し出す。蓮は困ったように笑った。
「そんな、お気遣いなく。僕は当然のことをしただけです。」
紬は首を横に振る。
「それでも、何かの形でお礼を伝えたかったんです。受け取っていただけませんか。」
紬の大きな瞳が、少しの緊張を孕んで見つめてくる。その真っすぐな言葉に、蓮は少しだけ照れたように笑う。
「……ありがとうございます。それなら、ありがたくいただきます。」
紬はほっとしたように笑顔になった。その表情を見て、蓮も自然と笑みを浮かべる。
「今日は、少し時間があるんです。」
蓮は買ったパンをトレーに乗せ、イートイン席へ目を向けた。
「もしよろしければ、コーヒーをお願いできますか。」
「もちろんです。」
紬は湯を沸かし、丁寧にコーヒーを淹れる。店内には、豆がふくらむ香ばしい香りが広がった。
窓の外では、坂道を下る自転車が一台、ゆっくりと秋風の中を走っていく。
コーヒーを運ぶと、蓮は穏やかな表情で窓の外を眺めていた。
「文化祭が終わって、ようやく学校も落ち着きました。」
「毎日お忙しそうでしたものね。」
「ええ。」
「しばらくは、こうしてゆっくりパンを食べられそうです。」
紬はその言葉に、思わず笑みをこぼした。
「それなら、よかったです。」
アップルパイの箱を見つめながら、蓮がふと口を開く。
「困りました。」
「え?」
「お礼をいただいてしまいました。」
「今度は僕がお礼をしないといけません。」
紬は思わず吹き出した。
「お礼のお礼ですか?」
「そうなりますね。」
「そんなことをしていたら、終わらなくなりますよ。」
「確かに。」
蓮も笑う。
「でも、それも悪くない気がします。」
その言葉に、紬は少しだけ目を丸くした。
「終わらないくらい、誰かに『ありがとう』と言えるのは、幸せなことですから。」
穏やかにそう話す蓮を見て、紬は静かにうなずく。
「……そうですね。」
しばらくして、蓮は窓の外へ目を向けた。坂の向こうの山々は、少しずつ赤や黄色に色づき始めている。
「町外れのお寺の紅葉が、そろそろ見頃なんです。」
「とても静かで、僕の好きな場所なんですよ。」
紬は興味深そうに顔を上げた。
「行ってみたいです。」
「でも、お店があるので、なかなか……。」
「水曜日なら。」
蓮は思い出したように言う。
「定休日でしたよね。」
紬は少し驚いた。
「覚えていてくださったんですか。」
「以前、お話ししていましたから。」
照れたように微笑み合う。そして蓮は、少しだけ間を置いて言った。
「では――。お礼のお礼ということで、ご案内しましょうか。」
紬は笑いながら首をかしげる。
「そんなことをしたら、また私がお礼を考えなくちゃいけません。」
「そうしたら、また僕がお礼をします。」
「終わりませんね。」
「終わりません。」
二人は声を立てて笑った。その笑い声に、奥でパンを並べていた千鶴がそっと顔を上げる。仲睦まじく話す二人を見て、小さく目を細めた。
(焦らなくていい。この子たちは、この子たちの歩幅で歩いていけばいい。)
そう思いながら、何も言わずに焼き上がったパンを棚へ並べる。
蓮が帰ったあと、紬は店先で秋の風を胸いっぱいに吸い込んだ。
来週の水曜日、紅葉を見に行く約束。それは特別な約束ではない。「お礼のお礼」という、小さな口実。それでも胸の奥が少しだけ弾んでいる。
店へ戻ると、千鶴がお茶を淹れて待っていた。
「楽しみだねぇ。」
その一言に、紬は少し照れながら笑う。
「……うん。」
窓の外では、赤く色づき始めたもみじが、秋風に揺れていた。




