秋を知らせる紅玉アップルパイ(前編)
十月の終わりが近づくと、常磐木町の風は少しずつ冷たさを増していた。
朝、ククノチの裏庭では、金木犀の香りがまだかすかに残っている。厨房では紬が、紅玉りんごを丁寧に磨いていた。
「今年も、この季節だねぇ。」
千鶴が木箱のりんごをのぞき込みながら微笑む。
「うん。今年は少し甘みが強いみたい。」
紬は包丁を入れ、りんごを均等な厚さに切り分けていく。鍋にバターを溶かし、りんごを並べる。
砂糖を加えると、じゅわっと甘い香りが立ち上った。そこへレモン果汁を少しだけ。最後にシナモンをほんのひとつまみ。
湯気と一緒に立ちのぼる香りに、千鶴は目を細めた。
「この匂いだけで幸せになれるねぇ。」
紬は笑いながら木べらを動かす。
「毎年、アップルシナモロールを楽しみにしてくれるお客さんが多いから。」
「今年も喜んでもらえたらいいな。」
そう言いながらも、頭の片隅には別のことが浮かんでいた。病院へ向かう車の中。
「僕を頼っていただけて、うれしかったです。」
あの日の蓮の言葉だった。思い出すたび、胸の奥が少しだけ温かくなる。本当に、素敵な人。
「紬。」
千鶴が優しく呼ぶ。
「先生へのお礼、アップルパイするんだろう?」
紬は少し照れたように笑った。
「うん。何がいいかなって考えたけど……。やっぱり、私にできるのは手作りのものだから。」
千鶴はうれしそうにうなずく。
「それが一番いいよ。紬の気持ちが伝わるからねぇ。」
焼き上がったアップルパイは、表面がこんがりときつね色に色づいていた。アップルシナモンロールにしようするリンゴを、蓮のために特別にパイに包んで焼いたものだ。艶を出すために水で薄めたアプリコットジャムを薄く塗る。窓から差し込む朝の光を受けて、きらりと輝いた。
「きれい……。」
紬は思わずつぶやく。
「先生、喜んでくれるといいねぇ。」
「受け取ってくれるかな。お礼と言ったら遠慮するかしら。」
紬が少し心配そうに言うと、千鶴はくすっと笑った。
「遠慮されたら?」
「……困る。」
「じゃあ、『これはおばあちゃんからでもあります』って言えばいい。」
紬は思わず笑ってしまう。
「それは、ずるいよ。」
「本当のことだからねぇ。」
祖母と孫は顔を見合わせて笑った。
昼前になると、店はいつものように賑わい始めた。アップルシナモンロールは並べたそばから売れていく。
「今年も始まったね。」
「これを待ってたんだ。」
そんな声を聞くたび、紬の頬も自然と緩む。それでも、店のベルが鳴るたびに、無意識に入口へ目を向けてしまう自分がいた。
(今日は……来るかな。)
そう思った瞬間、自分で少し恥ずかしくなる。
「どうしたんだい?」
千鶴が気づいたように尋ねる。
「ううん。なんでもない。」
そう答えながらも、もう一度だけ入口を見てしまう。その様子を見て、千鶴は何も言わず、小さく微笑んだ。
午後の陽射しが店の床を長く照らし始めた頃――。
カラン。聞き慣れたベルの音が響く。
「こんにちは。」
穏やかな声が聞こえた瞬間、紬は自然と笑顔になっていた。
「こんにちは、藤代先生。」




