栗あんぱんと、頼ること。(後編)
蓮はすぐに店の鍵を閉めると、千鶴をそっと支えて車まで歩いた。
「ゆっくりで大丈夫ですよ。」
穏やかな声に、千鶴は申し訳なさそうに笑う。
「先生、ごめんねぇ。」
「謝らないでください。今は体調が優先ですから。」
後部座席へ千鶴を座らせると、紬がシートベルトを丁寧に締める。千鶴に付き添うため、後部座席に同乗した。
「小鳥遊さん。」
蓮が運転席のドアを開けた。
「出発します。」
その一言で、ようやく我に返る。
「……はい。」
車が静かに走り出した。
常磐木町を抜けると、道は海沿いから山あいへと続く。隣町の総合病院までは、およそ二十分。車内にはエンジン音だけが流れていた。
紬は千鶴をさすりながら、声をかけた。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「うん……。」
千鶴は目を閉じたまま、小さくうなずいた。
「ごめんねぇ。今日はちょっと、頑張りすぎたみたい。」
その声を聞いても、紬の胸の苦しさは消えない。もっと早く休ませればよかった。朝、顔色が少し悪かったのに。
立ちくらみをした時、無理にでも座らせればよかった。そんな後悔ばかりが浮かんでくる。
「……私がもっと早く休ませていれば。」
思わずこぼれた声に、蓮は前を向いたまま静かに首を振った。
「違います。」
「でも……。」
「小鳥遊さん。」
赤信号で車が止まる。蓮はそこで初めて紬の方を見た。
「今、一番大切なのは、誰かのせいにすることではありません。」
その落ち着いた眼差しに、紬は言葉を失う。
「千鶴さんが安心して診てもらえるようにすることです。」
「……はい。」
「だから、大丈夫です。」
その一言だけで、不思議と呼吸が少し楽になった。
病院で診察を受けると、医師は穏やかに説明した。
「疲労と軽い脱水ですね。点滴をすれば落ち着くと思います。大事には至っていませんよ。」
その言葉を聞いた瞬間、紬は力が抜けるように椅子へ座り込んだ。
「よかった……。」
思わず涙がにじむ。蓮は少し離れた場所で、その様子を静かに見守っていた。
外はすっかり暗くなっている。点滴を終えた千鶴は、顔色を取り戻していた。
「大ごとになってしまったねぇ。」
「もう。」
紬は少し怒ったような顔をする。
「心配したんだから。」
「ごめん、ごめん。」
千鶴はいたずらっ子のように笑う。その笑顔を見て、紬もようやく笑うことができた。
帰り道。千鶴は後部座席で気持ちよさそうに眠っている。西日が車内を橙色に染めていた。
しばらく沈黙が続いたあと、紬がぽつりとつぶやく。
「……情けないですね。」
蓮は視線だけを向ける。
「運転もできなくて。頭では何をすればいいか分かっていたのに。体が動かなくて。たった一人のおばあちゃんなのに……。」
最後の言葉は、自分に言い聞かせるようだった蓮は少しだけ微笑む。
「今日の小鳥遊さんは。」
その言葉に、紬は顔を上げる。
「一人で頑張ろうとしすぎでした。」
紬は何も言えない。その通りだった。
「頼ることは、弱いことではありません。」
蓮は前を向いたまま続ける。
「僕は教師なので、生徒にもよく話すんです。困ったら、助けてって言っていい。それは逃げることじゃない。ちゃんと前へ進むための力だから。」
車内に、静かな時間が流れる。
「今日は……。」
蓮は少し照れくさそうに笑った。
「僕を頼っていただけて、うれしかったです。」
紬は目を丸くした。その言葉は、思ってもいなかった。迷惑をかけた。うまく動けなかった自分はもっとしっかりしなさいと言われると思っていた。
「……ありがとうございます。」
小さく答えると、それ以上言葉が続かなかった。胸の奥がじんわりと温かくなる。今まで、人に頼ることは迷惑をかけることだと思っていた。
この人は、それを「うれしかった」と言ってくれた。
ククノチへ戻ると、千鶴は自分の足でゆっくり車を降りた。
「先生、本当にありがとう。今日は先生がおってくれて助かったよ。紬ちゃんを助けてくれてありがとうねぇ。」
こんな時でも紬の心配をしている。やはりこの人は祖母なのだろう。蓮は穏やかに笑う。
「元気になられてよかったです。」
帰ろうとする蓮を、紬は店先まで見送った。秋の風が、二人の間をやさしく吹き抜ける。
「今日は、本当にありがとうございました。」
「どういたしまして。」
少しだけ間が空く。言葉はないが、その無言の時間で紬の感謝の気持ちが伝わっている気がした。
「また、パンを買いに来ます。」
いつもの言葉。何度も聞いた言葉。それなのに今日は、どこか特別に聞こえた。
「はい。」
紬は自然と笑顔になる。
「お待ちしています。」
蓮が坂を下り、見えなくなるまで見送る。その姿が見えなくなっても、紬はしばらくその場を動けなかった。
一人で頑張ることだけが、強さではない。誰かを信じて頼ることも、きっと同じくらい大切なのだと気付かせてくれた。そう思えた秋の夕暮れだった。




