栗あんぱんと、頼ること。(前編)
秋になり、常磐木町の山々が少しずつ色づき始めた。朝の空気はひんやりとして、パン生地を触る手にも心地よい季節がやってくる。
ククノチでは、この時期だけの栗あんぱんが焼き上がっていた。甘さを控えた栗あんに、小さく刻んだ渋皮煮を混ぜ込み、表面には黒ごまをひとつ。
祖母千鶴が店主の頃に開発し、昔から守り続けてきた、秋の定番だった。
「今年もいい香りだねぇ。」
オーブンから天板を取り出しながら、千鶴が目を細める。
「おばあちゃんの栗あんぱん、毎年楽しみにしてくださる方が多いもんね。」
「ありがたいことだよ。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。開店すると、店内には焼きたての香りを目当てにした常連客が次々と訪れる。
「今年も栗あんぱん始まったんだね。」
「待ってたよ。」
そんな声が飛び交う。近所の小学生が、ランドセルを揺らしながら母親と入ってきた。
「ぼく、このパン!」
栗あんぱんを指さす男の子に、母親が少し困ったように笑う。
「さっきお昼食べたばかりでしょう?」
「でも、おじいちゃんに買って帰る!」
その一言に、母親は目を丸くした。
「昨日、おじいちゃんが『今年も栗あんぱん食べたいな』って言ってたから。」
紬は思わず微笑む。
「ありがとうございます。」
焼きたてを袋へ入れる。男の子は大事そうに袋を抱え、「早く帰ろう!」と母親の手を引いた。その後ろ姿を見送りながら、千鶴がぽつりと言う。
「パンって、不思議だねぇ。」
「誰かを思い出したり、誰かを思ったり。」
「それだけで、おいしくなる。」
紬は静かにうなずいた。
「そうだね。」
昼を過ぎる頃には店も少し落ち着いた。紬がパン棚を拭いていると、厨房から小さな物音がした。振り向くと、千鶴が作業台に手をついていた。
「おばあちゃん?」
「……あら。」
千鶴は笑おうとする。
「ちょっと立ちくらみしただけ。大丈夫よ。」
そう言って姿勢を戻すが、その笑顔はどこか力がない。紬は心配そうに近寄る。
「最近、栗あんぱんの仕込みが続いたから休んでないでしょう?」
「平気平気。年寄りはねぇ、ちょっと疲れるとこうなるだけ。」
「でも……。」
「紬だって休んでいないもの。心配だよ。」
「私は大丈夫。」
そう言って千鶴はいつものように笑った。その笑顔を見て、紬もそれ以上は言えなかった。
午後。店内には柔らかな西日が差し込み始める。紬が補充の栗あんパンを並べ終えた、その時だった。
「紬……。」
千鶴の声が、いつもより弱い。振り向く。千鶴がふらりとよろめいた。
「おばあちゃん!」
駆け寄った紬が体を支える。千鶴の手は冷たく、顔色も青白かった。
「ごめんねぇ……。」
そのまま力が抜けるようにしゃがみ込む。
「おばあちゃん、しっかりして!」
紬の声が震えた。どうしよう。病院へ行かなきゃ。店は? 幸い客足が途切れているから、CLOSEDの看板を出せば混乱は避けられるだろう。
救急車を呼ぶ? ーーでも意識はある。車なら隣町の病院まで二十分。
頭では分かっているのに、体が思うように動かない。レジの鍵を握ろうとして、手から滑り落ちた。カラン、と乾いた音が店内に響く。呼吸だけが速くなる。震える手を握りしめた。
「大丈夫……。」
自分に言い聞かせる。
「私が、しっかりしないと……。」
その時だった。
ーーカラン。店のベルが静かに鳴る。
「こんにちは。」
聞き慣れた落ち着いた声。いつも通り仕事帰りに立ち寄った、蓮だった。紬が振り返る。
「藤代先生……。今日はもう、その……。」
その顔を見た瞬間、張りつめていたものがほどけるように、目に涙がにじんだ。蓮は一瞬で店内の様子を見渡した。
床に座り込む千鶴。青ざめた紬。落ちた鍵。穏やかだった表情が、すっと引き締まる。
「小鳥遊さん。」
落ち着いた声だった。
「大丈夫です。病院に連れて行くことはできますか?」
「でも、私運転するの、かなり久しぶりで。」
「わかりました。では、僕が運転します。」
短く、迷いなく言い切る。紬は何も答えられなかった。ただ、小さくうなずくことしかできなかった。




