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夕暮れとぶどうカンパーニュ

 九月に入ると、常磐木町の風は少しだけ表情を変えた。

 蝉の声はひぐらしに変わり、朝の坂道には、どこからともなく金木犀の甘い香りが混じり始める。

 ククノチの店先にも、小さな秋がやってきていた。


「今年も届きましたよ。」


 八百屋の主人が抱えてきたのは、隣町の農園で採れた粒の大きなぶどうだった。


「立派ですね。」


 紬は箱をのぞき込み、思わず笑みを浮かべる。


「毎年楽しみにしてるんだろ?」


「はい。」


 カンパーニュの生地にオリーブオイルを塗り、半分に切ったぶどうを並べる。焼き上がると、果汁がじんわりと生地へ染み込み、甘さと塩気が不思議なくらいよく合う。

 秋になると必ず焼く、ククノチの季節のパンだった。


「今年もきれいに焼けたねぇ。」


 祖母の千鶴がオーブンをのぞき込みながら微笑む。


「おばあちゃんのおかげ。」


「私は何もしてないよ。」


「ぶどうを並べる向き、毎年教えてくれてたじゃない。」


 千鶴は照れたように笑った。


「そんなこともあったねぇ。」


 店いっぱいに焼きたての香りが広がる。今日も穏やかな一日が始まった。

 午前中は、近所の常連客が次々と訪れた。


「秋が来たね。」


「このパン、毎年楽しみなのよ。」


 そんな声を聞くたび、紬の頬も自然とゆるむ。昼前。ふと、入口のベルが鳴った気がして顔を上げた。――誰もいない。風で扉が少し揺れただけだった。


「……あれ。」


 自分でも呆れてしまい、小さく笑う。その様子を見ていた千鶴が、お茶を飲みながら言った。


「今日は忙しいんだろうね。」


「え?」


「藤代先生。」


 紬は思わず手を止めた。千鶴にはお見通しだ。


「文化祭の準備。」


「高校の前を通ったら、みんな遅くまで残ってたよ。」


「あ……。」


 そうだった。先日、高校へ行ったときも、生徒たちは文化祭の話で持ちきりだった。きっと先生も忙しい。分かっている。分かっているのに。ベルが鳴るたび、つい入口を見てしまう。


「私、変だね。」


 ぽつりとこぼすと、千鶴はやさしく首を振った。


「変じゃないよ。毎日のように来ていた人が来なくなると、ちょっと寂しいものさ。」


 その言葉に、紬は少しだけ安心した。紬が店を継ぐ前、店主だった祖母にもそんな経験があるのかもしれない。


 その日の夕方。閉店準備を終えた紬は、買い物へ向かうため商店街を歩いていた。坂を下りた交差点で、信号待ちをしていると、

 見覚えのある後ろ姿が目に入る。長身に、少し疲れたような肩。部活動帰りなのだろう。ジャージを姿の蓮が、自転車を押しながら歩いていた。


「こんばんは、藤代先生。」


 思わず声をかける。蓮が振り返り、穏やかに笑った。


「こんばんは、小鳥遊さん。」


 その笑顔を見た瞬間、紬の胸の中にあった小さなもやが、ふっと軽くなる。


「お久しぶりですね。」


 その一言に、蓮は少し驚いたように笑った。


「そうですね。しばらくククノチに行けていませんでしたからね。」


 その言葉を聞いて、紬は少し照れくさくなる。


「そう……ですね。」


 秋の風が、二人の間をゆっくりと通り抜けていった。信号が青に変わる。


「これから買い出しなんです。途中までご一緒してもいいですか。」


 紬がそう尋ねると、蓮は穏やかにうなずいた。


「もちろんです。途中までですが、カゴを持ちましょう。」


 二人は並んで坂道を歩き始めた。


 蓮は紬が待っていた買い物かごをさらりと持ってくれた。夕方の商店街は、一日の賑わいが少しずつ落ち着き始めていた。

 魚屋の店先では威勢のいい声が響き、豆腐屋からは湯気が立ち上る。どこか懐かしい町の風景だった。


「文化祭の準備、お忙しそうですね。」


 紬が口を開く。


「ええ。」


 蓮は苦笑した。


「生徒より先生の方が慌てているかもしれません。」


「そんなものですか?」


「そんなものです。毎年恒例の行事なんでしょうが、内容は違いますから。」


 その言葉に紬は小さく笑った。


「パンも似ています。同じレシピでも、気温や湿度で焼き上がりが変わるんです。だから毎日少しずつ調整しています。」


「なるほど。」


 蓮は感心したようにうなずく。


「教師とパン職人には、共通点がありそうですね。」


「そうかもしれません。」


 二人は顔を見合わせて笑った。歩いていると、小さな公園の前を通りかかる。

 ブランコでは、小さな男の子が父親に背中を押してもらっていた。楽しそうな笑い声が夕暮れの空へ響く。紬は自然とそちらに目が行く。


「いいですね。」


「ええ。」


 蓮も足を止めた。


「こういう景色が、この町にはたくさんあります。」


 しばらく二人で眺めていると、男の子が父親に向かって大きく手を振った。


「もう一回!」


 父親は笑いながら、またブランコを押す。その何気ない光景に、紬は胸が温かくなるのを感じた。


「常磐木町って、不思議ですね。」


「不思議?」


「はい。」


「特別なことは何もないのに、帰ってきたくなる場所というか……。」


 蓮は静かにうなずいた。


「分かります。」


「僕も、ここへ来てまだ半年くらいですが。」


「帰り道にククノチへ寄るのが、いつの間にか一日の区切りになっていました。」


 その言葉に、紬は思わず足を止める。


「それは、光栄です。」


「はい。」


 蓮は少し照れたように笑う。


「だから最近は、文化祭の準備で寄れない日が続いて。正直、少し寂しかったです。」


 その言葉は、とても穏やかだった。けれど紬の胸には、小さな波紋のように広がっていく。寂しいのは自分だけではなかった。


「……私もです。」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


「藤代先生が今忙しい時期だと分かっていたのに。ベルが鳴るたび、つい見てしまって。」


 言ったあとで、少し恥ずかしくなる。蓮は驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑った。


「それは何というか。光栄ですね。それに、少しホッとしました。」


「え?」


「寂しいのは僕だけじゃなかったんですね。」


 夕暮れの風が、ぶどう色に染まり始めた空をゆっくりと渡っていく。商店街の分かれ道まで来ると、蓮は立ち止まった。


「今日はこのあと学校へ戻るんです。」


「まだお仕事ですか?」


「文化祭まで、あと少しですから。」


 紬は少しだけ残念そうに、それでも笑顔で言った。


「頑張ってください。」


「ありがとうございます。では。」


 蓮は別れ道で、ふと思い出したように振り返る。


「文化祭が終わったら、またゆっくりパンを買いに行きます。」


 その一言が、紬には何よりうれしかった。


「お待ちしています。」


 自転車がゆっくりと坂を上っていく。その背中を見送りながら、紬は小さく微笑んだ。店に来ることが当たり前だった人。

 恋をしていると言うには、恐れ多い素敵な人だ。けれど、明日またベルが鳴ったら。きっと今日より少しだけ、うれしく思うのだろう。

 秋風が、ククノチの暖簾を静かに揺らしていた。


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