文化祭と焼きとうもろこしパン(前編)
夏休みに入った高校は、静かなようで静かではなかった。グラウンドからは野球部の掛け声が響き、体育館では吹奏楽部の演奏が風に乗って流れてくる。
蝉の声さえ、部活動の音に負けじと鳴いていた。
その朝、ククノチでは紬が焼き上がったパンを箱へ詰めている。香ばしい醤油の香り。甘いとうもろこし。表面にはこんがり焼き色がついている。
「焼きとうもろこしパン、三十個……。」
注文票をもう一度確認して、箱のふたを閉じた。
文化祭実行委員会から依頼を受け、高校の企画説明会で試食用として配達することになったのだ。
「緊張する?」
厨房から顔をのぞかせた千鶴が笑う。
「……少しだけ。」
紬は正直に答えた。
「学校へ行くなんて、卒業以来だから。」
「藤代先生には知らせてあるの?」
「ううん。」
「ふふっ。」
千鶴は意味ありげに笑う。
「じゃあ、びっくりするわね。」
紬は首をかしげた。自分の登場が彼のあの穏やかさを騒がせるとは到底思えない。仕事で行くだけだし、なにせ唯のパン屋と客の関係だからだ。
「そうでしょうか。」
「きっとするわ。」
千鶴はそれ以上何も言わず、保冷バッグへ保冷剤を入れ始めた。
「行ってらっしゃい。」
「行ってきます。」
パンの入った箱を抱え、紬は夏の日差しの中へ歩き出した。
坂を上り切ると、常磐木高校の校門が見えてくる。
「こんにちは。」
守衛に声を掛け、職員玄関へ。教頭が笑顔で迎えてくれた。
「小鳥遊さんですね。暑い中ありがとうございます。」
「こちらこそ、お声掛けいただいてありがとうございます。」
廊下。ワックスの匂い。掲示板には文化祭のポスター。すれ違う生徒たちの「こんにちは」という元気な声。どれも懐かしくて、少しくすぐったい。
遠くから英語の音読が聞こえてきた。
紬は思わず足を止める。
教室の扉は半分だけ開いている。
中では蓮が黒板の前に立っていた。
「Good morning, everyone.」
いつもの穏やかな声。
けれど、ククノチで聞く声とは少し違う。
背筋を伸ばし、生徒一人ひとりへ目を配りながら授業を進める姿には、教師としての凛とした空気があった。
「この英文は、直訳よりも意味を考えてみましょう。」
生徒たちが次々と手を挙げる。
蓮は一人ひとりの答えを受け止めながら、時折教室に笑いを起こしていた。
厳しすぎず、甘すぎず。
自然と教室全体が一つになっている。
「……先生なんだ。」
紬は思わず小さくつぶやいた。
いつもパンを選び、静かに笑う人。
その人が今、三十人以上の生徒の前で堂々と授業をしている。
知らなかった一面だった。
「生徒会室はこちらです。」
教頭が案内する声で、自分が今仕事中であることを思い出した。いけないいけない、大事な営業なんだから、頑張らないと。
紬はパンが入ったケースを掴み直し、生徒会室へ向かった。
「焼きとうもろこしパンです。」
箱を開けると、生徒会室いっぱいに醤油の香ばしい香りが広がる。
「いい匂い!」
「お腹すいてきた!」
一人ずつパンを受け取り、「いただきます」と声が重なった。
「……おいしい!」
「とうもろこし甘っ!」
「これはかなり、採用が近いです。」
あちこちから感想が飛び交う。紬は少し照れながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
「では、生徒に試食してもらって投票で決めてもらいますね」
常磐木高校の文化祭で売ってもらう商品は毎年生徒の投票で決まる。
採用されたらククノチにとって初挑戦。紬は確かな手応えを感じていた。




