送り出すはちみつレモンパン(後編)
蓮は窓際の席へ腰を下ろした。運ばれてきたのは、焼きたてのはちみつレモンパンと、いつもの深煎りのコーヒー。
「いただきます。」
ふんわりとした生地をちぎると、湯気とともに甘いはちみつの香りが立ちのぼる。ひと口かじる。
そのあとから、刻んだレモンピールの爽やかな香りがゆっくりと広がった。何度か試食したが、これまでで1番のバランスだ。蓮は思わず目を細める。
「……おいしい。」
紬はレジの向こうで、その一言を聞いて肩の力を抜いた。
「試食したときより、もっとまとまっていますね。」
蓮が続ける。
「甘さが前に出すぎなくて、レモンがちゃんと残ってる。」
紬は少し照れたように笑った。
「実は、あの日いただいた感想を参考に、何度も焼き直したんです。」
「僕のですか?」
「はい。」
「『もう少しレモンが残ると夏らしいですね』って、おっしゃっていましたよね。」
蓮は少し考えてから、はっとしたように笑った。
「そんなことを言いましたね。」
「覚えていました。」
紬はそう言って、ショーケースのパンを整える。
何気ない会話なのに、その空気はどこか心地よかった。
その頃、一人の少年が店の前で立ち止まっていた。小学五年生くらいだろうか。首には虫取り網、背中には少し大きめのリュック。
ガラス越しにパンを眺めては、また目をそらす。その様子に気づいた紬は、そっと扉を開けた。
「こんにちは。」
少年は少し驚いて振り向く。
「あ……こんにちは。」
「暑いでしょう。中で涼んでいきませんか?」
少年は遠慮がちに頷き、店へ入った。
「何かお探し?」
「えっと……。」
少年はショーケースを見つめながら言った。
「お母さんに、おつかいを頼まれて。」
「そうなんだ。」
「でも、どれがおすすめか分からなくて。」
紬は少しだけ考えた。不思議と視線が、はちみつレモンパンへ向かう。
「もしよかったら、新商品のはちみつレモンパンはいかがですか?」
「新しいパン?」
「今日からなんです。」
少年は値札を見て、小さくうなずいた。
「じゃあ、それにします。」
「ありがとうございます。」
袋を受け取った少年は、ほっとしたように笑った。
「これなら、お母さんも喜ぶかな。」
その言葉に、紬も自然と笑顔になる。
「きっと喜びますよ。」
少年が帰ったあと、蓮が静かに口を開いた。
「新しいパンって、送り出すとき少し緊張しませんか?」
紬は驚いたように顔を上げる。
「分かりますか?」
「なんとなく。小鳥遊さんの顔が緊張して見えました。」
蓮は笑った。
「多分、生徒に初めての範囲の小テストを受けさせる時ににています。」
「見守ることしかできない?」
「そうです。」
「信じて送り出すだけ。」
その言葉を聞いた紬は、小さくうなずいた。パンも、テストも。最後は、自分の力で誰かのもとへ届いていく。
作り手にできるのは、その背中をそっと見送ることだけなのかもしれない。
店の外では、夏の風が暖簾を揺らしていた。帰り際、蓮は空になった皿をカウンターへ戻す。
「ごちそうさまでした。」
「ありがとうございました。」
少し間があって、蓮が笑う。
「また一つ、ククノチの看板商品が増えましたね。」
その言葉に、紬は店先の黒板を見つめた。
『本日より はちみつレモンパン 販売します。』
朝は少し緊張して見えたその文字が、今はどこか誇らしく見える。
「長く愛されるパンになるといいな。」
ぽつりとつぶやくと、
「きっとなりますよ。」
蓮は迷いなく答えた。
「小鳥遊さんが何度も焼き直して作ったパンですから。」
紬は少し照れながら、「ありがとうございます」と微笑む。
ベルが鳴り、蓮は夏の日差しの中へ歩き出した。その背中を見送りながら、紬は思う。
誰かの言葉は、ときどきパンを焼く勇気になる。
今日のはちみつレモンパンも、きっと誰かの夏の思い出になってくれる。
そう信じて、紬は次の焼き上がりを待つオーブンへ静かに目を向けた。
夕暮れ時に、坂の上のお寺の鐘が、常磐木町へ穏やかに響いていた。




