送り出すはちみつレモンパン(前編)
梅雨が明けると、常磐木町の空は一段と高くなった。
港から吹く潮風は少しだけ熱を含み、それでも坂道を抜ける風は、どこか木々の匂いを運んでくる。
朝から蝉が元気よく鳴いている。ククノチの店先では、紬が黒板を立てかけていた。
「本日より はちみつレモンパン 販売します。」
白いチョークで書かれたその文字を見て、紬は小さく笑う。
「やっとだ。」
あの日、レモンミルクパンの試作品を蓮に食べてもらってから、一か月近く。
レモンの酸味が少し強いと思えば、はちみつをほんの少しだけ増やし、甘くなりすぎればレモンピールの刻み方を変える。
何度も焼き直して、ようやく「これだ」と思える味になった。レモンミルクパンは、より相応しい名前のはちみつレモンパンとしてデビューすることになった。
オーブンを開けると、焼き色のついたパンから、やさしいはちみつの香りと爽やかなレモンの香りがふわりと広がる。
「今日からよろしくね。」
そう話しかけるようにパンを並べる姿を、レジ横のトケイソウが静かに見守っていた。
開店して間もなく、店のベルが鳴った。
「おはようございます。」
入ってきたのは、年配の男性だった。日に焼けた肌に、首へ掛けた手ぬぐい。毎朝、港まで散歩をする近所の常連客だ。
「今日は新しいパンがあるんだな。」
「はい。」
紬は嬉しそうに頷く。
「はちみつレモンパンです。」
「ほう。」
男性は黒板を見て目を細めた。
「夏らしいね。」
「よろしければ。」
「じゃあ、一つもらおうか。」
「ありがとうございます。」
男性はパンを受け取ると、そのままイートイン席へ座った。一口食べる。噛むたびに広がるはちみつのやさしい甘さ。
そのあとを追いかけるように、レモンの爽やかな香りが鼻へ抜ける。
「……これはいいね。」
思わず独り言がこぼれた。
「暑い日に食べたくなる。」
その言葉を聞いた紬は、胸の奥がじんわりと温かくなる。新しいパンを店へ並べる日は、何度経験しても少しだけ緊張する。
だからこそ、「おいしい」の一言が、何より嬉しかった。
昼前になると、店内は少し落ち着いた。ガラス越しに差し込む夏の日差しが、木の床へやわらかな影を落としている。
そのとき、ベルが鳴った。
「こんにちは。」
聞き慣れた穏やかな声。紬は自然と顔を上げる。
「こんにちは、藤代先生。」
「こんにちは。」
蓮は店へ入ると、店先の黒板に気づいて足を止めた。
「……あ。」
思わず笑みがこぼれる。
「商品になったんですね。」
紬も少し照れたように笑った。
「はい。」
「ようやく完成しました。」
蓮は黒板をもう一度見つめる。
『本日より はちみつレモンパン 販売します。』
その文字だけで、試作品を食べた日のことを思い出した。名前は違うが、紬が何度か試食を頼んできたのですぐにわかる。厨房で少し緊張した表情を浮かべながら、
「よかったら、感想を聞かせてください。」
そう言ってパンを差し出した紬。あの日よりも、今日はずっと晴れやかな顔をしている。
「おめでとうございます。」
蓮がそう言うと、紬は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ありがとうございます。」
その一言は、「新商品ですね」ではなく、「ここまで頑張りましたね」と言われたように聞こえた。
だから、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「もちろん、一つお願いします。」
「はい。」
紬は焼きたてのはちみつレモンパンをトレーへ載せながら、小さく微笑んだ。
今日、このパンを食べてもらいたい人は誰だろう。もしそう聞かれたなら、きっと心のどこかで、もう答えは決まっていたのかもしれない。




