分かち合うたまごサンド(前編)
夏休みに入った常磐木町は、いつもより少しだけ朝が早い。坂の下の港では漁船が帰り、魚屋の店先には銀色の魚が並び始める。
商店街のラジオからは懐かしい歌謡曲が流れ、開店準備をする店主たちが「おはよう」と声を掛け合っていた。
ククノチの厨房にも、焼きたてのパンの香りが広がっている。紬はオーブンから食パンを取り出すと、焼き色を確かめるように軽く指先で叩いた。
こんこん、と乾いた音。
「いい焼き上がり。」
その表情は、まるで大切な子どもの成長を見守るように優しかった。今日は食パンを沢山焼いたので、卵サンドを多めに作ることにした。理由は自分でも分からない。けれど、朝から何度も頭に浮かんだ。
「今日は、卵サンド。」
そんな日が、時々ある。自分の作るパンを必要としている人たちの声が聞こえてくるような、そんな感覚。粉の香りや気温、生地の機嫌を感じるように、自分の特技についても受け入れていた。
開店から一時間ほど経った頃。ベルが鳴り、小さな女の子が勢いよく店へ飛び込んできた。
「おばあちゃん、ここ!」
その後ろから、「走っちゃだめよ」と息を切らせながら女性が続く。七十代くらいだろうか。白髪をきれいにまとめ、麦わら帽子を手に持っている。
「いらっしゃいませ。」
紬が声を掛けると、女性ははにかむ。
「ごめんなさいね。この子、パン屋さんが大好きで。」
「こんにちは!」
女の子は元気いっぱいに頭を下げる。
「こんにちは。」
紬もしゃがみ、目線を合わせて笑顔で返した。
「お名前は?」
「ひなた!」
「ひなたちゃん。」
「うん!」
返事まで元気で、店の中がぱっと明るくなる。ショーケースを覗き込むひなたは、どのパンにしようか真剣な顔だ。
「メロンパン……。」
「クリームパン……。」
「うーん。」
その様子を見て、おばあちゃんが困ったように笑う。
「朝ごはんを食べてきたでしょう?」
「でもパンは別!」
「そういうものなの?」
「そういうもの!」
紬は思わず吹き出してしまった。
「分かる気がします。」
「ですよね!」
ひなたは大きく頷く。
その素直さに、店内のお客さんたちも笑顔になっていた。
「おばあちゃん。」
ひなたが小さな声で言う。
「これ食べたい。」
指さしたのは、卵サンドだった。
「あら珍しい。」
女性は少し驚く。
「いつも選ぶのは甘いパンなのに。」
「今日はこれがよかったの。」
迷いのない返事だった。
「じゃあ、一つください。」
「ありがとうございます。」
紬は丁寧に包みながら、不思議に思う。今日、多めに作ろうと思った卵サンド。最初に選んだのは、小さな女の子だった。
イートイン席へ座る二人。ひなたは大きな口で卵サンドを頬張る。
「おいしい!」
頬いっぱいにパンを入れたまま笑うので、おばあちゃんは思わずハンカチを取り出した。
「ほら、お口。」
「えへへ。」
その何気ない光景を見ながら、紬の胸がふっと温かくなる。そこへ、ベルが鳴った。
「こんにちは。」
穏やかな声。紬は自然と顔を上げる。
「こんにちは、藤代先生。」
蓮は店へ入ると、イートイン席の祖母と孫に気づいて会釈した。
「お邪魔します。」
「こんにちは。」
女性もにこやかに会釈を返す。
「先生、今日はお休みですか?」
紬が尋ねる。
「はい。部活も今日は午後からなので。」
「そうなんですね。」
「何にしようかな。」
ショーケースを眺める蓮を見て、紬はふと笑う。
「今日は、卵サンドがおすすめです。」
「そうなんですか?」
「はい。」
毎朝、おすすめのパンとして、まるで天の声のように降ってくるインスピレーションは、今日はこのたまごサンドだった。蓮は紬の表情を見て、小さく頷く。
「じゃあ、それをお願いします。」
紬の「パン屋の勘」に相当な信頼があるらしい。
「ありがとうございます。」
紬は卵サンドを包みながら、ほんの少しだけ嬉しくなった。それはパンが選ばれたからなのか。それとも、蓮が自分のおすすめを迷わず選んでくれたからなのか。
まだ、自分でも分からなかった。




