雨上がりのメロンパン(後編)
蓮はカップを両手で包みながら、穏やかに続けた。
「佐々木さん。」
「はい。」
蓮は少しだけ窓の外へ目を向け、それから穏やかな声で言った。
「英語に、こんなことわざがあります。」
“Nothing ventured, nothing gained.”
「直訳すると、『何も挑戦しなければ、何も得られない。』という意味です。」
店内には、雨粒が軒先を打つ音だけが静かに響いていた。
「怖いと思うのは、それだけ本気だからです。」
蓮は美緒の目をまっすぐ見つめる。
「本気で向き合っている人ほど、不安になります。でも、その不安ごと一歩踏み出した先にしか見えない景色が、きっとあります。」
美緒は手元のメロンパンへ目を落とした。表面の甘いクッキー生地が、ぽろりと皿へこぼれる。
「……先生も、そうだったんですか。」
「ええ。」
蓮は照れくさそうに笑った。
「初めて教壇に立った日は、前の日ほとんど眠れませんでした。」
「えっ、本当ですか?」
「本当です。」
「全然そんなふうに見えません。」
「見せないように頑張っていただけですよ。」
その一言に、美緒は思わず吹き出した。
「先生でも緊張するんですね。」
「今でもします。」
「そうなんですか?」
「授業は毎回、『今日はちゃんと伝わるかな』って考えますから。」
美緒は少し驚いたように目を丸くしたあと、小さく笑った。
さっきまで曇っていた表情が、雨雲の切れ間から差す光のようにやわらいでいく。
やがて、雨はすっかり上がった。窓から西日が差し込み、濡れた石畳がきらきらと輝いている。
「止みましたね。」
紬が窓の外を見て微笑む。
「本当だ。」
美緒も立ち上がり、外へ目を向けた。空には大きな入道雲が浮かび、その向こうには淡い青空が戻ってきている。
「ありがとうございました。」
美緒は紬と蓮、それぞれに頭を下げた。
「コンクール、頑張ります。」
「応援しています。」
紬が笑顔で言う。蓮も静かに頷いた。
「佐々木さんなら大丈夫です。」
美緒は少し照れたように笑うと、パンの入った紙袋を大切そうに抱えて店をあとにした。ベルが鳴り、扉が閉まる。
店の中には、また穏やかな静けさが戻ってきた。
「いい生徒さんですね。」
紬がコーヒーカップを下げながら言う。
「ええ。」
蓮は窓の外を眺めたまま頷いた。
「一生懸命なんです。だからこそ、不安も大きいんでしょうね。」
「そういう人ほど、自分に厳しいですから。」
「そうですね。」
しばらく沈黙が続く。気まずさはない。窓から吹き込む雨上がりの風が、焼きたてのパンの香りをやさしく運んでいく。
「今日のメロンパン。」
蓮がふと口を開く。
「本当においしかったです。」
紬は少し照れたように笑った。
「焼きたてだったので。」
「もちろん、それもあります。」
蓮は空になった皿を見つめる。
「でも……今日はなんだか、気持ちまで少し軽くなった気がします。」
紬はその言葉に、小さく首を傾げた。
「それなら、よかったです。」
それ以上は何も聞かない。パンのおかげなのか、雨が上がったからないが。
店先では、雨粒をまとったトケイソウの葉が夕暮れの風に揺れている。
やがて、坂の上のお寺から鐘の音が響いた。
ゴーン……。
常磐木町に、いつもの夕暮れがゆっくりと訪れる。
紬は明日の仕込みのために厨房へ戻り、蓮は空になった紙袋を手に店をあとにした。
雨に洗われた坂道を歩くその足取りは、来たときよりも少しだけ軽やかだった。




