第3話 北辺侯爵領への左遷命令
三日後、私は王都北駅から北辺行きの長距離馬車に乗った。
春だというのに北へ向かうほど風は冷たくなり、窓の外の畑はまだ茶色いままだった。膝の上には、父の押印がある転属辞令と、自分で写し取った救恤帳の控え。消された数字だけは、どこへ行っても消えない。
シュネーハーフェンの停留場に着いた時には、空が青灰色に曇っていた。
迎えは一人だけだった。
濃紺の外套を着た長身の男が、風の中で静かに立っている。三十五歳の北辺侯爵、カイル・ノルデン。王都の夜会で一度だけ見かけたことがある。無口で、笑わず、けれど冬の救恤費だけは毎年きちんと納める人だと評判だった。
「エルナ・ベルク監査補佐殿」
「補佐ではなく監査官です、と言いたいところですが……今は赴任者で結構です」
私が答えると、カイルは手にしていた紙袋を差し出した。
「道中で食べ損ねると思った。パンだ」
中にはまだ温かい胡桃パンが入っていた。
歓迎の言葉より先にパンを渡されるとは思わず、私は一瞬だけ言葉を失う。
「ありがとうございます」
「領内は食べ物の話の方が早い」
それだけ言って、彼は馬車へ荷を積み替える手伝いを始めた。
シュネーハーフェンまでの道すがら、私は窓の外を見つめた。港に近づくにつれ、倉の屋根が増える。けれど煙が少ない。製粉所も乾燥小屋も、動いている気配が薄い。
「穀倉は止まっているのですか」
私の問いに、カイルは短く答えた。
「止めたくて止めたわけじゃない」
「備蓄量は」
「帳簿の半分もない」
思わず手元の控えを握りしめた。王都へ報告された北辺備蓄は十分量だったはずだ。それが半分もないなら、残りはどこへ消えたのか。
「前任の監査は?」
「三人替わった。誰も帳簿を最後まで読まなかった」
私はパン袋を膝に置いた。王都で奪われた鍵が、ここへつながっている気がした。
領主館へ着く前に、カイルが小さく言う。
「一つだけ確認する。君は追い返されても、帳簿を閉じない人か」
私は窓に映る自分を見る。三十三歳。婚約も席も失って、ここへ来た。けれどまだ、手の中には控え帳と印影図がある。
「閉じません」
カイルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、港の先に見える一番大きな穀倉の屋根を見ていた。
そこが、この冬の嘘の中心なのだと、私ももうわかっていた。




