第2話 破られた封蝋と婚約解消
その日の午後、監査室には父と上役が揃っていた。
父オットー・ベルクは王都穀倉局の監督官で、私にこの仕事を教えた人でもある。けれど継母と再婚してからは、帳簿より家庭の機嫌を優先するようになった。上席監督官、継母クララ、リーゼ、ユリウス。顔ぶれを見た瞬間、私は一人だけが呼ばれた理由を悟った。
「エルナ。北辺監査の件だが、担当をリーゼへ差し替える」
「理由を伺っても?」
「お前は最近、神経質すぎる」
上席監督官がため息をつく。
「救恤印の違いだの、削り跡だの。現場を混乱させるだけだ」
「混乱させているのは、偽造印を通した人間です」
私は午前中に控えた袋の印影図を机へ置いた。左右の葉脈の本数、蝋の混合率、縄の撚り方向。どれも正規品と違う。ここまで揃えば、ただの押し間違いではない。
けれど父は、図面を見ようともしなかった。
「エルナ、家庭の和を乱すな」
「家庭の和ではなく、王都の備蓄です」
リーゼが目元を押さえる。
「わたくし、お義姉様に嫌われているんです……。北辺に行きたいって申し出ただけなのに」
継母が娘の肩を抱いた。
「この子は善意で言っているのよ。あなたが寒い場所に行くのが心配だからって」
善意で人の机の鍵は取らない。善意で偽の救恤印も押さない。
私がそう言い返そうとした時、ユリウスが一枚の書類を差し出した。
「エルナ。婚約は解消しよう」
白い紙に、すでに彼の署名があった。
「君は帳簿と印しか見ていない。穀倉局の妻としては不向きだ」
「都合が悪くなったのでしょう」
思ったより平たい声が出た。怒りの方が先に冷えたらしい。
「偽造印を追及する婚約者は邪魔だものね」
ユリウスは眉をひそめるだけだった。否定しない。
父がようやく口を開く。
「処分を言い渡す。エルナ・ベルクを、本日付で北辺侯爵領シュネーハーフェン備蓄蔵の監査補佐へ転属とする」
「補佐?」
「監査官の席はリーゼに与える」
父の言葉より、リーゼの笑みの方がよほど残酷だった。
「安心してください、お義姉様。鍵束はわたくしが大事に使いますわ」
私は婚約解消書へ目を落とした。もう泣く理由はなかった。泣けば、私が執着していることになる。奪われたくないのはユリウスではなく、仕事と誇りの方だった。
私は自分の印章を取り出し、婚約解消書の末尾へ静かに押した。
「婚約は終わりで結構です。でも、北辺へは補佐ではなく監査に行きます」
「辞令はそうなっていない」
「なら、現地で仕事を見せます」
鍵束は渡さなかった。
自分の机の引き出しにしまい、封を切った新しい旅行鞄へ印影図と飢饉帳の控えだけを入れる。
あの部屋に残していいものなど、もう一つもなかった。




