第70話 黒い兵団
泥の中で焼いていた鶏肉が、そろそろいい具合になっていた。
タカシは焚き火の中から、大きな泥の塊を取り出した。
表面はすっかり焼き固まり、まるで陶器のようになっている。
「よし」
木の棒で軽く叩く。
コン。
コンコン。
やがて表面にひびが入り、タカシが手で泥を剥がしていった。
パキッ。
その瞬間、中から白い湯気が立ち上った。
同時に、周囲へ強烈な香りが広がる。
「……おお」
ユナが思わず声を漏らした。
焼けた鶏肉の香り。
大蒜の独特な匂い。
野草の爽やかな香り。
さらに唐辛子の刺激的な香りまで混ざっている。
これまで太狼村では、誰も嗅いだことのない匂いだった。
タカシは鶏肉を木の枝で切り分け、まず自分で一口食べた。
肉は柔らかい。
腹の中に詰め込んだ大蒜や野草の香りが肉に移っている。
唐辛子の辛さもある。
しかし、ただ辛いだけではない。
「旨い」
タカシは満足そうに頷いた。
「成功だ」
その言葉を聞いたアグニが、すぐに手を伸ばす。
「俺にもくれ!」
「熱いぞ」
「大丈夫だ!」
そう言って鶏肉を掴んだアグニは、大きな口を開けて噛みついた。
「熱っ!」
周囲から笑い声が上がる。
「だから言っただろ」
「でも旨い!」
アグニは口の中を冷ましながら、もう一口食べた。
「なんだこれ」
さらにもう一口。
「旨いぞ!」
ユナも恐る恐る肉を口に入れた。
「……辛い」
一度、顔をしかめる。
しかし。
すぐにもう一口食べた。
「でも、おいしいです」
「だろ?」
「はい!」
周囲の者たちも次々と肉を食べ始めた。
「辛い!」
「水をくれ!」
「でも旨い!」
「もう一口食べたい!」
タカシは、その様子を満足そうに眺めていた。
戦いばかりではない。
こうして皆が旨いものを食べ、笑っている。
こういう生活を作ることも、自分の目的だった。
その時。
タカシは、横に置いていた大蒜を見つめた。
「これは大事だ」
大蒜を手に取り、一片ずつ丁寧に分けていく。
「キバオウ」
「なんだ?」
「これを土に埋めろ」
近くにいたキバオウの部下が、不思議そうな顔をした。
「これをですか?」
「ああ」
「蛇避けですね」
「違う」
タカシは即答した。
「食べるんだよ」
「……これを?」
「旨いんだぞ」
タカシは大蒜を大切そうに手の中へ包んだ。
「それに、土に植えれば増やせる」
「増えるんですか?」
「そうだ」
部下は大蒜を見つめる。
さっきまでオロチを追い払うための道具だと思っていた。
それを今度は畑で育てるという。
「分かりました」
「絶対になくすなよ」
「はい!」
部下は大蒜を大事そうに抱え、畑の方へ向かっていった。
タカシは今度はユナの方を見る。
「ユナ」
「はい」
「これから料理をもっと増やしたい」
「料理を?」
「そうだ」
タカシは先ほどの鶏肉を指差した。
「肉を焼くだけじゃない。
煮たり。
蒸したり。
野草を入れたり。
塩を使ったり。
いろいろな組み合わせを試すんだ」
ユナは真剣な顔で聞いていた。
「どんなものが食べられるのか。
どうすれば旨くなるのか。
どうすれば長く保存できるのか。
それを調べてほしい」
「私が?」
「ああ」
ユナは少し驚いた。
しかし、すぐに頷いた。
「分かりました」
「やってみます!」
太狼村に、料理という新しい文化が生まれようとしていた。
その時だった。
「タカシ様!」
突然、大きな声が響いた。
全員が振り返る。
一人の斥候が、全力で走ってきていた。
その表情は明らかに普通ではない。
タカシは立ち上がった。
「どうした?」
「敵です!」
その一言で、空気が変わった。
「敵?」
「城壁の外に……大勢います!」
タカシはクロベたちと共に、急いで城壁へ向かった。
階段を登る。
城壁の上へ出る。
そして。
外を見た瞬間。
タカシは言葉を失った。
「……なんだ、あれは」
城壁の外に、人間が並んでいる。
黒い毛皮。
黒い服。
黒い槍。
黒い盾。
黒い集団が、整然と並んでいた。
ただ集まっているわけではない。
明らかに隊列を組んでいる。
「何人いる?」
タカシが尋ねた。
クロベが目を細める。
「およそ千人」
「千人……」
太狼村には、およそ三百人の兵士がいる。
しかし相手は千人。
数だけでも三倍以上だった。
しかも。
太狼村の兵士の多くは、農民でもあり、狩人でもある。
戦うためだけに生きている兵士ではない。
だが、目の前の黒い集団は違った。
槍を持ち。
盾を持ち。
隊列を組んでいる。
明らかに軍隊だった。
「……厄介だな」
タカシが呟く。
すると。
黒い兵団の中から、三人の男が前へ出てきた。
武器は持っていない。
「使者か」
クロベが言った。
三人はゆっくりと城門の前まで歩いてくる。
そして、一人が大きな声を上げた。
「太狼村の統領、タカシに伝える!」
タカシは城壁の上から答えた。
「俺がタカシだ!」
「我らは黒山王国の使者である!」
黒山王国。
初めて聞く名前だった。
「我らが王の命を伝える!」
使者は背後の黒い兵団を指差した。
「太狼村は、黒山王国の支配下に入れ!」
城壁の上で、ざわめきが起こった。
キバオウが顔をしかめる。
「従属しろということか?」
タカシが聞いた。
「その通りだ」
使者は答えた。
「さらに、太狼村で得られる収益の五十パーセントを黒山王国へ納めてもらう!」
「半分?」
リグが思わず声を上げる。
「俺たちが働いて、その半分を持っていくのか?」
「そうだ」
使者は冷たく答えた。
「その代わり、黒山王国の庇護を受けられる」
「拒否すれば?」
タカシが聞く。
使者は後ろを振り返った。
千人の兵士。
それだけで答えになっていた。
城壁の上に緊張が走る。
ライナが弓を握る。
リグは槍を持つ手に力を入れた。
キバオウも、黒い兵団を睨みつけている。
しかし。
タカシはすぐに答えなかった。
敵について、何も知らない。
千人いることは分かった。
だが。
本当に千人だけなのか。
どんな武器を持っているのか。
どれほど訓練されているのか。
そして。
自分たちは、どれほど戦えるのか。
それすら分かっていない。
「待て」
タカシが言った。
「何?」
「俺一人では決められない」
使者が眉をひそめた。
「この村には、いくつもの部族がいる。
俺だけの村ではない」
タカシは続けた。
「皆と話し合う必要がある」
「いつまで待てばいい?」
「三日」
タカシは答えた。
「三日待ってくれ」
使者たちは互いに顔を見合わせた。
小声で何かを話している。
しばらくして。
「いいだろう」
一人が答えた。
「三日後に返事を聞く」
「分かった」
三人の使者は、黒い兵団の方へ戻っていった。
タカシたちは、その背中を見つめる。
千人。
太狼村が、これまで戦ったことのない規模の軍勢だった。
「会議を開く」
タカシが言った。
その日の夜。
太狼村の中心にある大きな建物へ、主要な人物が集められた。
タカシ。
クロベ。
キバオウ。
リグ。
アグニ。
ライナ。
そして、各部族の代表者たち。
「まず、どうする?」
キバオウが尋ねた。
「戦うのか?」
「まだ決めない」
タカシは首を横に振った。
「まず、敵を知らなければならない」
クロベが頷いた。
「その通りですね」
「相手は千人だ」
タカシは地面に簡単な図を書いた。
「だが、本当に千人しかいないのか?」
「分かりません」
クロベが答えた。
「黒山王国と名乗っています。
あの千人が、すべての兵士とは限らないでしょう」
「そうだ」
タカシは頷いた。
「だから偵察する」
リグを見る。
「リグ」
「おう」
「お前の部下で、一番身軽な者を五人選んでくれ」
「五人?」
「ああ」
「何をさせる?」
「敵の夜営地を偵察する」
リグの顔が引き締まった。
「夜に近づくのか」
「そうだ」
タカシは指を折りながら言った。
「兵士の数。武器。食料。見張りの人数。できるだけ調べろ」
「分かった」
リグはすぐに頷いた。
「腕の立つ奴を選ぶ」
タカシはクロベの方へ向いた。
「クロベ」
「はい」
「俺たち自身の戦力も調べてくれ」
「味方の戦力ですね」
「ああ」
「兵士の正確な人数。槍の数。弓の数。矢の数。鉄の武器が何本あるか」
さらに続ける。
「食料は何日分あるのか。戦えない女や子供は何人いるのか。城壁の防御力はどれほどなのか。全部調べてくれ」
クロベは真剣な顔になった。
「分かりました」
「明日までに、可能な限りまとめます」
会議は終わった。
それぞれが、自分の仕事へ向かう。
タカシは一人、建物の外へ出た。
夜空を見上げる。
そこへユキがやってきた。
『どうする?』
「まだ分からない」
『戦うの?』
「それも分からない」
ユキはタカシの隣に座った。
遠く。
城壁の向こうには、黒い兵団がいる。
夜営の火がいくつも見えていた。
太狼村は、急速に発展してきた。
村を作った。
城壁を作った。
通貨を作った。
鉄を作った。
武器を作った。
そして。
いくつもの部族を集めてきた。
しかし。
今回の敵は違う。
自分たちよりも大きな組織。
自分たちよりも多い兵士。
初めて出会う、本格的な国家だった。
タカシは独り言のように呟いた。
「己を知り、敵を知れば、百戦危うからず」
ユキが顔を上げた。
『なにそれ?』
タカシは少し笑った。
「兵法だよ」
『へいほう?』
「ああ」
タカシは城壁の外を見つめた。
「自分たちのことも知らない。敵のことも知らない。そんな状態で戦ったら、勝てるものも勝てない」
『ふーん』
「だから、まず知る」
タカシは言った。
「敵が何者なのか」
「そして」
「俺たちが、どれだけ戦えるのか」
夜の風が吹いた。
遠くに見える黒い兵団の夜営地。
そこでは、いくつもの火が揺れている。
三日後。
太狼村は答えを出さなければならない。
従属するのか。
戦うのか。
それとも。
別の道を選ぶのか。
タカシは静かに目を閉じた。
まずは。
敵を知る。
そして。
己を知る。
すべては。
そこからだった。




