第7話 火を恐れる獣
川の中で、洞窟熊が立ち上がった。
胸まで水に浸かっているはずなのに、その巨体はまるで揺るがない。
砕けた氷の破片が、肩にぶつかっては弾かれていく。
赤い目が、じっとこちらを見ていた。
「……嘘だろ」
俺の喉から、乾いた声が漏れる。
氷河期の熊って、こんな化け物なのか?
いや、違う。
これはおかしい。
水の中なのに、熊の周囲だけ白い湯気が立っている。
冷たい川面が、じゅうじゅうと音を立てていた。
『熱い』
白狐が、低く唸る。
『あいつ、中が変』
「中?」
『分からない。でも、腐ってるみたいな匂い』
腐ってる……?
意味は分からない。
だが、あの異様さには理由があるらしい。
洞窟熊が、前足を川底についた。
筋肉が膨らむ。
『来る!』
次の瞬間。
ドゴォォォッ!!
熊が、水しぶきを上げて飛び出した。
「なっ!?」
ありえない跳躍。
凍った川を蹴り砕きながら、一直線にこちらへ。
速い。
重い。
怖い。
でも、もう足はすくまない。
「散れ!!」
俺が叫ぶ。
狼たちが左右へ。
白狐が木の上へ跳ぶ。
熊の巨体が、俺のすぐ横をかすめた。
風圧だけで吹き飛びそうになる。
「っ……!」
怖ぇ。
でも、前みたいにパニックにはならない。
呼吸。
足場。
逃げ道。
全部見る。
今の俺には、前世で積んだ山の知識がある。
この世界で学んだ観察力もある。
そして――
守りたいものもある。
「こっちだ、バカ熊!」
俺は雪玉を拾って、熊の顔に投げつけた。
ぺしっ。
……全然痛くないだろうけど。
洞窟熊の目が、ぎろりと俺を睨んだ。
「よし、乗った!」
『本当に馬鹿』
白狐が呆れてる。
でも、これでいい。
この熊を、森の中に入れちゃいけない。
洞窟の方へ行かれたら、子狼たちが危ない。
俺は森の縁へ走る。
頭の中で、地形を思い出す。
昨日、川に来た時に見た。
森の手前に、倒木が積もってる場所があった。
あそこだ。
洞窟熊が追ってくる。
雪を蹴る音が、地響きみたいに迫る。
心臓がうるさい。
でも、今は怖さよりも、頭が回る。
「右!」
俺が叫ぶと、若狼二頭が右から熊に飛びついた。
脚に噛みつく。
熊が苛立って前足を振る。
一頭が吹っ飛ぶ。
「くっ……!」
だが、その隙で距離ができる。
倒木地帯に飛び込む。
雪の下に、乾いた枝が山ほど埋もれている。
俺は立ち止まり、荒く息を吐いた。
「……これしかねえ」
『何する』
木の上の白狐が見下ろす。
「火だ」
『また?』
「火は、怖いんだよ。生き物は」
前世で見た。
熊だって、火を警戒する。
それに、こいつは熱を持ってる。
なら逆に、酸素を奪えば苦しむかもしれない。
理屈は分からない。
でも、やるしかない。
俺は腰の草紐に挟んでいた火種を取り出した。
昨夜から、ずっと守ってた小さな炭。
これが最後の切り札。
「頼むぞ……!」
雪を払う。
乾いた杉皮を集める。
フェザースティック代わりに、薄く裂く。
指がかじかむ。
でも、身体が覚えてる。
熊が来る。
間に合え。
カンッ。
カンッ。
火花。
散る。
もう一度。
煙。
「よし……!」
息を吹き込む。
赤。
橙。
炎。
ぼっ、と火が生まれた。
『出た!』
白狐が目を丸くする。
「狼! 枝を蹴れ!」
通じるか分からないまま叫ぶ。
だが、母狼が先に動いた。
前足で倒木を崩す。
若狼も押す。
乾いた枝が、山みたいに崩れた。
そこへ――
洞窟熊が突っ込んできた。
「今だッ!!」
俺は燃え始めた火種を、枝の山へ投げ込んだ。
一瞬、静寂。
次の瞬間。
ボォォォォォッ!!
乾いた倒木が、一気に燃え上がった。
火柱。
熱風。
赤い壁。
洞窟熊の目が、初めて見開かれた。
『ギャアアアアアアアアッ!!』
悲鳴。
熊が、叫んだ。
前足で火を払う。
だが、毛に火が移る。
白い蒸気が、黒煙に変わる。
「効いてる!」
やっぱりだ。
火だ。
火は、この時代最強の武器だ。
熊が暴れる。
木を薙ぎ倒し、雪を撒き散らす。
でも、混乱してる。
今なら。
「足元だ!」
母狼が飛ぶ。
若狼も噛みつく。
熊がよろめく。
俺は、焼けた枝の先を槍みたいに握った。
熱い。
でも、離さない。
これで終わらせる。
熊が、こちらを見た。
燃える毛皮の向こう。
赤い目。
また、あの目。
前世で俺を食いちぎった、あの恐怖。
でも。
今度は違う。
俺は、一人じゃない。
「……今度は、負けねえ」
叫びながら、走る。
洞窟熊も、最後の咆哮を上げて突っ込んでくる。
距離が縮む。
一歩。
二歩。
踏み込む。
熊の口が開く。
牙。
喉。
見えた。
「そこだぁぁぁぁぁッ!!」
俺は、燃える枝槍を、熊の口の奥へ全力で突き込んだ。
ぐしゃっ。
柔らかい感触。
熊の喉奥で、火が弾ける。
洞窟熊の目が、見開かれる。
『グ……ア……』
巨体が、ぐらりと揺れた。
そのまま。
前のめりに倒れる。
ドォォォン!!
雪が舞う。
森が、揺れる。
静寂。
誰も、動かない。
やがて。
白狐が、木の上から顔を出した。
『……死んだ?』
母狼が、鼻を鳴らす。
『死んだ』
その瞬間。
全身の力が抜けた。
俺はその場に、へたり込む。
「はぁ……っ、はぁ……っ……」
勝った。
生きてる。
熊に。
勝った。
涙が、勝手に出た。
情けないくらい、止まらなかった。
「……ざまぁみろ」
誰に向けたのか、自分でも分からない。
前世の熊か。
運命か。
それとも、弱かった自分か。
でも、確かに。
何かを、一つ乗り越えた気がした。
その時だった。
倒れた洞窟熊の胸元から、じわり、と赤い光が漏れた。
「……何だ?」
熊の胸毛の奥。
そこに、拳大の赤黒い石みたいなものが埋まっていた。
どくん。
それが、心臓みたいに脈打つ。
白狐が、毛を逆立てた。
『……それ、触るな』
「え?」
『それは、冬の病だ』
冬の病。
初めて聞く言葉だった。
でも、その石を見た瞬間。
俺は、本能で分かった。
この世界は、ただの氷河期じゃない。
もっと、何かがおかしい。




