第6話 雪原の王
咆哮は、長く尾を引いた。
山肌に反響し、洞窟の奥まで震わせる。
まるで、この世界そのものが唸っているみたいだった。
俺は立ち上がったまま、入口の外を見つめた。
青かった空が、いつの間にか鉛色の雲に覆われ始めている。
嫌な予感しかしない。
『行くな』
母狼の声が、頭の奥に響いた。
昨日よりはっきりしている。
敵意が薄れたからか、それとも俺の力が馴染んできたのか。
「何だ、あれ」
『知らない』
「知らないって……」
『でも、嫌な匂い』
狼の嗅覚でそう言うなら、相当だ。
白狐も、珍しく真顔だった。
『あれは冬の外れから来た』
「冬の外れ?」
『向こう』
狐は、北の山脈を鼻先で示した。
白く霞む、巨大な連峰。
あそこより先は、ただの雪と氷の世界なんだろう。
『たまに、あっちから変なのが来る』
「変なのって」
『大きくて、強くて、腹が減ってるやつ』
「最悪だな」
狐はこくりと頷く。
『だから、お前は死ぬ』
「断言すんな」
だが、冗談じゃない。
今の俺は、草の腰巻きに木槍一本だ。
大型獣なんて、遭遇した時点で終わりだ。
普通なら。
でも、ここで隠れて震えていても、結局死ぬ。
この洞窟が安全か、確かめなきゃならない。
俺は火のそばに置いていた枝を拾い、先端を炭で焼いて硬くする。
簡易槍の補強だ。
「見に行く」
『馬鹿』
「知ってる」
でも、巣を守るなら、危険を知るしかない。
俺は母狼を見る。
「子ども、守りたいだろ」
母狼は低く唸った。
黄色い目が、俺を見据える。
『……人間のくせに、変だ』
「そっくりそのまま返す」
数秒の沈黙。
やがて母狼は立ち上がり、洞窟の奥にいた二頭の若い狼を見た。
灰色の雄二頭。
昨夜は気づかなかったが、いたらしい。
『行くぞ』
え?
「マジ?」
『巣の近くで暴れられたら困る』
そっけないが、つまり共闘だ。
白狐が鼻を鳴らす。
『群れるの嫌い』
「でも来るんだろ?」
『火の近くがいい』
「素直じゃねえな」
こうして。
裸同然の元ソロキャンパー。
口の悪い白狐。
警戒心の強い狼の群れ。
意味不明な即席パーティが結成された。
*
雪は浅くなっていた。
咆哮のした方角へ進むにつれ、空気が重くなる。
森の手前まで来た時、白狐が足を止めた。
『臭い』
狼たちも、毛を逆立てている。
俺はしゃがみ込み、地面を見た。
足跡。
デカい。
しかも、妙だ。
「……熊?」
だが、違う。
爪痕は深い。
でも、歩幅が長すぎる。
そして何より、足跡の周囲だけ雪が妙に溶けている。
「熱?」
ありえない。
こんな氷点下で。
だが、確かに、足跡の縁はぬかるんでいた。
『嫌なやつ』
白狐の声が震えている。
その時。
バサバサバサッ!!
森の奥から、大量の鳥が飛び立った。
「伏せろ!」
反射的に叫ぶ。
次の瞬間。
ドォン!!
何か巨大なものが、森を突き破って飛び出してきた。
木が折れる。
雪煙が舞う。
現れたのは――
「……っ!?」
息を呑んだ。
熊だった。
だが、ただの熊じゃない。
デカい。
ヒグマの倍はある。
肩の筋肉が盛り上がり、全身が黒褐色の毛で覆われている。
その背中には、氷柱みたいな白い毛が逆立っていた。
何より、目だ。
赤い。
飢えと殺意だけでできたような、真っ赤な目。
『洞窟熊……!』
母狼が唸る。
洞窟熊。
絶滅したはずの、化け物。
しかもこいつ、普通じゃない。
口元から、白い息じゃなく、熱い蒸気みたいなものを吐いている。
「なんだよ、それ……!」
洞窟熊は、鼻をひくつかせた。
そして、真っ直ぐ俺を見た。
ぞくり、と全身が総毛立つ。
この目。
知ってる。
現代で、俺を殺した熊と同じ目だ。
理屈じゃない。
身体が、勝手に震え始めた。
息が浅くなる。
心臓が、うるさい。
枝の折れる音。
獣臭。
牙。
全部が、あの日を思い出させる。
「っ……」
足が、すくむ。
動けない。
ダメだ。
ここで止まったら、本当に終わる。
でも、身体が言うことを聞かない。
その時。
ふわり、と白い尻尾が俺の手に触れた。
白狐だった。
『馬鹿』
「……え?」
『あれは、お前を殺したやつじゃない』
静かな声。
『でも、怖いなら、震えればいい』
「……」
『それでも、火を作っただろ』
その一言で。
胸の奥の何かが、少しだけほどけた。
そうだ。
俺は、ただ死にに来たんじゃない。
生き直しに来たんだ。
俺は、ゆっくり息を吸った。
吐く。
冷たい空気が、肺を満たす。
震えは、止まらない。
でも、前は見える。
「……悪いな」
狼たちに言う。
「俺、ちょっと熊は苦手でさ」
母狼が鼻を鳴らした。
『知ってる』
子どもたちを守る母の目は、強かった。
逃げない目だ。
俺も、腹を括る。
木槍を握る手に力を込めた。
「やるぞ」
洞窟熊が、咆哮した。
雪が舞い上がる。
その巨体が、一気にこちらへ突っ込んでくる。
「散れッ!!」
俺が叫ぶ。
狼たちが左右に散る。
白狐が岩陰へ跳ぶ。
熊は真っ直ぐ、俺へ。
怖い。
でも。
今度は、一人じゃない。
俺は、ぎりぎりまで引きつけて――
横へ飛んだ。
ドォォン!!
熊が雪面に突っ込み、地面が揺れる。
今だ。
「足だ!」
母狼が飛ぶ。
若狼が噛みつく。
熊が吠える。
だが、分厚い毛皮で浅い。
やっぱり硬い。
俺は周囲を見た。
木。
斜面。
凍った川。
使える。
「こっちだ、デカブツ!」
俺は叫び、熊の注意を引いた。
洞窟熊が振り向く。
赤い目が、俺を捉える。
来た。
俺は踵を返して走った。
『馬鹿!』
白狐の声が飛ぶ。
でも、これしかない。
俺は凍った川へ向かって一直線に走る。
昨日見た。
中央の氷は薄い。
あいつの体重なら――
背後で地響き。
近い。
速い。
「くそっ……!」
転ぶな。
転んだら死ぬ。
現代で死んだ時と同じだ。
でも、今度は――
学んでる。
俺は川へ飛び込んだ。
薄氷の上を、一気に駆け抜ける。
ぴしっ、と嫌な音。
でも走る。
向こう岸へ飛び移った瞬間。
洞窟熊が、咆哮しながら追ってきた。
そして――
バキィィィン!!
氷が砕けた。
巨大な身体が、冷たい川へ沈む。
水柱。
怒号。
狼たちの遠吠え。
俺は膝をついた。
息が切れる。
足が震える。
でも。
勝った。
その瞬間。
川の中から、赤い目が、ゆっくりとこちらを見た。
「……は?」
洞窟熊は、沈んでいなかった。
胸まで水に浸かりながら、ゆっくり立ち上がる。
そして。
口元が、笑ったように見えた。
『……まずい』
白狐の声が、初めて本気で震えていた。




