第55話 クロベの一言
斥候の報告から一夜。
白き谷は静まり返っていた。
普段なら朝から聞こえる子供たちの笑い声も少ない。
誰もが黒い山を見ていた。
その時だった。
遠くから激しい遠吠えが響く。
「ウォオオオオオン!」
ユキだった。
続いてシロガネ。
クロ。
ガン。
狼たち全員が落ち着きなく走り回っている。
普段の様子とはまるで違う。
タカシは急いで駆け寄った。
「ユキ!」
ユキはタカシを見るなり近寄ってくる。
しかし甘えている様子ではない。
全身の毛を逆立て、震えていた。
『タカシ!』
「どうした!」
『生まれた……』
「何が?」
ユキは黒い山を見つめる。
『とんでもないものが生まれた。』
シロガネも震えながら言う。
『あれは獣じゃない。』
『山の主だ。』
クロも尻尾を丸めていた。
『近付いたら全員死ぬ。』
狼たちは本能で理解していた。
あれは絶対に敵にしてはいけない存在だと。
タカシの背中に冷たい汗が流れる。
「そこまでなのか……」
ユキは静かに頷いた。
『今まで見た生き物とは違う。』
『山そのものが動いているみたいだった。』
タカシは拳を握った。
「ありがとう。」
狼たちはなおも黒い山を睨み続けていた。
その日の午後。
緊急会議が開かれた。
円形の会議場。
中央には大きな地図。
集まったのは各部族の代表だった。
タカシ。
ライナ。
リグ。
キバオウ。
クロベ。
シリカ。
アグニ。
そして斥候たち。
重苦しい空気が漂う。
タカシが口を開いた。
「まず報告だ。」
斥候が立ち上がる。
まだ顔色が悪い。
「大蛇は……」
喉を鳴らす。
「長さ三十メートルほど。」
ざわつく。
「太さは大人一人ほど……約一メートル。」
さらにざわつく。
「首は九本。」
「確認した。」
ライナが腕を組む。
「三十メートルか……」
リグが苦笑する。
「マンモスなんて可愛く見えるな。」
誰も笑えなかった。
タカシは地図を見つめる。
「移動速度は?」
「木を倒しながら進んでいました。」
「速いのか?」
「かなり。」
沈黙。
どう考えても勝てない。
ライナが口を開く。
「総攻撃するか?」
キバオウが首を振る。
「槍が届く前に食われる。」
リグ。
「火は?」
シリカ。
「九つの頭があります。」
アグニ。
「落とし穴を掘る?」
「却下。」
全員が頭を抱えた。
誰一人として決定打がない。
完全に行き詰まる。
その時だった。
部屋の隅で黙っていたクロベが、小さな声で呟いた。
「倒す必要……あります?」
全員がクロベを見る。
「どういう意味だ?」
クロベは少し考えながら続けた。
「相手が化け物なら。」
「正面から戦う必要はないと思います。」
タカシの目が変わる。
「続けろ。」
クロベは首を横に振る。
「まだ考えがまとまっていません。」
「でも。」
「勝つ方法じゃなくて。」
「負けない方法を考えるべきです。」
静寂。
タカシはその一言を何度も頭の中で繰り返した。
勝つ。
ではない。
負けない。
その発想は今まで誰も持っていなかった。
タカシはゆっくり頷く。
「……採用だ。」
クロベが驚く。
「え?」
「その考え方でいこう。」
ライナも頷いた。
「まず生き残る。」
リグも笑う。
「それなら俺にもできそうだ。」
しかし。
肝心の作戦はまだ誰にも分からない。
クロベ自身も、まだ答えを持ってはいなかった。
会議室には再び静寂が訪れる。
九つ首の怪物。
人類史上最強の敵。
その攻略法は、まだ誰の頭の中にも完成していなかった。




