第3話 裸の雪原
寒い、なんてもんじゃなかった。
意識が浮かび上がった瞬間、俺は肺の奥まで凍りつくような空気を吸い込んで、激しく咳き込んだ。
「っ……! げほっ、げほっ……!」
喉が焼ける。
いや、焼けるんじゃない。裂ける。
鼻の奥が痛い。肺が痛い。耳が痛い。全部痛い。
目を開けた。
白だった。
どこまでも、白。
空も、地面も、吹きつける雪も、全部が白い。
「……は?」
俺は呆然と呟いた。
冷たいものが、背中に刺さる。
いや、背中どころじゃない。尻も、足も、腕も、全部だ。
俺は――裸だった。
「うそだろおおおおお!?」
叫んだ瞬間、口の中に冷気が流れ込んできて、思わず身を縮める。
見渡しても、テントも、荷物も、焚き火もない。
あるのは、雪。
吹雪。
そして、俺の素っ裸の身体だけ。
「はっ、はっ、はっ……!」
パニックで呼吸が浅くなる。
ダメだ。
落ち着け。
こういう時こそ、まず状況確認。
俺は無理やり深呼吸をした。
冷たい空気が肺に刺さる。
生きてる。
身体は動く。
骨は……たぶん折れてない。
熊にやられた痛みは、ない。
でも、あれは夢じゃない。
肩を噛まれた感覚。骨が折れた音。最後の衝撃。
全部、鮮明に覚えてる。
「……俺、死んだよな?」
返事はない。
当然だ。
だが、その時。
『うるさい』
「っ!?」
俺は飛び上がりそうになった。
声。
確かに声がした。
だが、辺りに人影はない。
『そこで騒ぐな。耳に響く』
低く、ぶっきらぼうな声。
足元を見る。
雪の中から、白い毛玉みたいなものが顔を出していた。
「……え?」
それは、小さな白い狐だった。
雪と見分けがつかないほど真っ白な毛並み。
黒い目だけが、じっと俺を見ている。
狐が、喋った。
いや、違う。
口は動いてない。
でも、頭の中に声が響いている。
「え、ちょ、待て。お前……喋れるのか?」
『聞こえるだけだ』
「……は?」
『寒い。お前、邪魔』
狐は心底迷惑そうに尻尾を揺らした。
俺は一瞬、現実感を失った。
熊に殺されて。
雪山で裸で。
喋る狐。
どう考えても、おかしい。
でも。
頬に当たる雪は冷たい。
足の感覚は、もうかなり危ない。
これは夢じゃない。
つまり――
「……転生ってやつか?」
ぽつりと呟く。
狐が首を傾げた。
『てんせい? 知らん』
「だよな……」
ふらり、と立ち上がる。
足が震える。
やばい。長くは持たない。
こういう時、最優先は何だ?
食料? 違う。
水? 雪がある。
違う。
火だ。
「火……火を起こす」
『火?』
「そうだ。火があれば死なない」
俺は辺りを見回した。
雪原の先に、まばらな針葉樹林が見える。
あそこなら、風も多少防げる。
枯れ枝もある。
「行くぞ」
『どこに』
「森だ」
『嫌だ。寒い』
「お前、雪狐だろうが!」
『風は嫌い』
妙に人間くさい返答に、一瞬だけ笑いそうになる。
だが、笑ってる余裕はない。
俺は歯を食いしばって、雪の中を歩き出した。
一歩。
二歩。
雪が膝まで沈む。
「っ……!」
深い。
体力がごっそり削られる。
しかも裸。
皮膚感覚がどんどん鈍くなる。
このままじゃ森に着く前に死ぬ。
俺は立ち止まり、周囲を見た。
雪。
風。
地形。
すると少し先に、風で雪が浅くなっている筋が見えた。
「……風下か」
雪の流れを見る。
地形の凹凸を読む。
あっちならマシだ。
俺は進路を変えた。
狐が、いつの間にか後ろをついてきている。
『お前、死にそう』
「分かってる」
『なんで歩く』
「止まったら死ぬからだ」
『変なやつ』
そう言いながらも、狐は先を歩き始めた。
『こっち』
「え?」
『岩、ある』
俺は顔を上げた。
白い吹雪の向こうに、うっすらと黒い影が見える。
岩場だ。
「助かる……!」
俺は最後の力を振り絞って走った。
指先の感覚はない。
唇も、足も、もう自分のものじゃない。
それでも、進む。
岩陰に飛び込んだ瞬間、風が弱まった。
「はぁっ……はぁっ……!」
少しだけ、楽だ。
でも、まだ終わりじゃない。
次は火だ。
俺は岩陰の地面を探る。
雪の下に、乾いた苔。
樹皮。
細枝。
ある。使える。
手はかじかんで感覚がない。
でも、身体が覚えてる。
「フェザースティック……いや、まず火口……」
爪が割れ、指先から血が滲む。
でも削る。
細く。
軽く。
空気を含ませる。
狐が、不思議そうに見ていた。
『何してる』
「生きる準備だ」
俺は石を拾った。
黒くて、硬い。
火打石に似てる。
「頼むぞ……!」
打つ。
カンッ。
火花。
散る。
もう一度。
カンッ。
小さな火花が、火口に落ちた。
煙。
「よし……!」
息を吹き込む。
優しく。
でも確実に。
ふわり、と赤が生まれる。
次の瞬間。
ぼっ、と炎が立ち上がった。
橙色の、小さな命。
俺は、思わず笑った。
「……勝った」
狐が目を丸くする。
『太陽、作った』
「違う。火だ」
『すごい』
その言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。
張り詰めていたものが、一気に緩む。
火の熱が、頬を撫でる。
あったかい。
生きてる。
本当に、生きてる。
涙が、勝手に滲んだ。
「……っ、くそ」
情けない声が漏れる。
死んだはずなのに。
全部失ったのに。
それでも。
火があるだけで、人は生きたいと思える。
その時だった。
ドォォォォン……
腹の底に響くような、重い地鳴りがした。
俺と狐は、同時に顔を上げた。
『来る』
「何が――」
吹雪の向こう。
白い地平線の彼方に、黒い影がいくつも現れた。
巨大だった。
木より高い。
山みたいな背中。
長い牙。
揺れる毛皮。
それが、雪原をゆっくりと進んでくる。
息を呑む。
「……マンモス」
信じられない光景だった。
図鑑でしか見たことのない、絶滅したはずの巨獣。
それが、今、目の前にいる。
狐が、当たり前のように言った。
『大きいの、いつもいる』
「……マジかよ」
俺は火の前で、震える手を握りしめた。
寒さじゃない。
恐怖でもない。
理解したんだ。
本当に。
俺はもう、元の世界にはいない。
そして、ここは――
熊なんかより、ずっとヤバい時代だ。




